コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

君たちは傍観者だよ

初めて文章を書き始めたのは、15歳の時だった。その当時、中学生や高校生の中でブログというコンテンツが流行っていたからワタシもそれに便乗してたよ。何を書いていいかわからなくて色々な人のブログを眺めながら、結果的に行き着いたのは化粧パックを顔に貼り付けてる写真が多分はじめての投稿。

 

なんでもない投稿の繰り返しの中で、少しずつ利用方法が変わってきた。子供を降ろして学校を辞めたタイミングだったかもしれない。

人より多くの時間ができて、周りの学生とは少し違う生活を送った。近くにいい先生がいたから二人でいろんな議題を出して、19歳と16歳は狭い六畳一間でセックスしたらお酒を飲みながら、学術書を広げて答えのない持論を繰り広げて。

次第に一人でいる時もいろんなことを考えるようになった。乏しい知識を掻き集めて持論書き連ねるうちに多くの人が目を止めるようになったんだ。あの時の言葉は今のワタシにとってもかげがえなのいものだし、その内容は若者批判や自分の学歴コンプレックスからくる嫉妬ばかりが渦巻いた屁理屈だったけど。

考えることが楽しいに変わった時、「悲しい、嫌だ」という感情も言葉にするようになった。言葉にして整理して、綺麗な終着点を見つけられると心が軽くなったから。そのうち、ただの叫び声みたいな文章もたくさん書くようになったよね。この時点でもう、言葉にする習慣がついてしまったんだ。

 

少しずつ見てくれる人も増えて、「あなたの文章が好き」と言ってくれる人が現れるようになった。多くの人に評価されることはないけど、何気ない世界の中で出会った人に「文章を書くのが上手いね」と褒められた。

 

そのうち「小説を書こう、物書きを目指そう、作品の文章を作ってくれ、ワタシのために言葉を書いて」と誰かのためにといった要素が迷いこむことが増えた。

でも、それはどれもうまくいかなかったよ。相手の感性を形にすることはできない。ワタシの文章は全部、ワタシという人間の事実を羅列しただけのものだ。誰かの心に秘めた事実を表現することはできない。そもそも、誰かが望んでいるもの「需要」という答えの上に晒されては、不埒な言葉の羅列ばかりだよ。

 

別にお金をもらってるわけじゃないよ。個人的に書いてる文章なんて、自己陶酔。だから本当はもっと誰がどうじゃなくて、素直に言い散らかして逃げればいい。「すごいね、いいですね、お上手ですね、いい文章を書くね」って誰かに評価されるのは嬉しいけど、素直にありがとうが出てこなくて。「買い被るなよ」って暴力だ立ち向かっちゃうところがある。

 

ワタシは人とうまく喋ることができないから、いつも言葉を閉じ込めてる。でも文章は周りの人々に伝われど、傍観者でしかない安心感があるから、この歳になっても書き続けるんだろうな。本当はワタシの人生に参加して欲しいはずなのに責任を負えない。だから傍観者の中でひたすら、押し殺してきた言葉を出してる。