コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

360度視界が悪い

はじめての本格的な転職活動が、本当に心も体もボロボロになるほどしんどい。みんなは、こんなことを何食わぬ顔でやり遂げてるのか?と思うと、自分のしょうもなさにへどが出る。

 

職務経歴書・履歴書など、言葉の帳尻を合わせるのが難しい。20代という材料に頼り切るには、あまりにも社会人経験が浅すぎる。記載する言葉の節々や経歴を振り返る中で、自分の愚かさをひしひしを打ち付けられているように感じるばかり。

 

何がしたいのか

どうしたいのか

今後どうなっていきたいのか

これまで何をしてきたのか

 

その言葉のられるは、あまりにも耳が痛い。何も用意していないまま、事ばかりが進んで気持ちは沈む一方。

「結婚してるから大丈夫でしょ」なんて言葉が、あまりにも無責任すぎる。何が大丈夫なんだ?何を根拠に大丈夫なんて言ってるんだ?

 

物事をなあなあに進めるのは好きじゃない。やるなら全力で戦いたい。後悔の内容に突っ走りたいなんて、そのパッションばかりがでバイタリティは集会遅れなんだよ。

 

カタカナだらけの文字の羅列に、頭がぐるぐるする。本当に何も知らなくて、でもこれまでの3年間を無駄にしたくなくて。自分を見つめなおすいい機会だと考える一方で、どれだけ無力なんだと突きつけられる。

 

それに加えて結婚してからの働き方も難しくなる。家のことをやりながら、どこまで仕事に注力することができるだろう。私は不器用だから、二つのことを完璧にこなすことはできない。「家庭もあるから、ほどほどに働いたほうがいい」というアドバイスも、さらに悩ませる種になる。

 

旦那との時間や仕事にかける思いなど、いろんなパワーバランスは難しい。だからと言って、どんな選択肢を選んでも後悔なんてしたくない。

 

具体的な計画図がないまま、ことはどんどん進んでいくし、時間はあっという間に終わっていく。何もしない時間はもったいないと感じる一方で、根っからの怠惰な性格が邪魔をする。こんな風に、はてぶで弱音を吐く時間があれば、オファーのきた企業にメールを返す文章を考えればいい。

 

現実逃避したいという甘えた気持ちに、本当に反吐が出る。

もっとちゃんとしたいとか、普通の人が見てる世界を見たいとか、その動機だっておろかなものだ。いつだってそう

 

下をみても

横をみても

上を見ても

 

安心できないなら、前だけ見てればいい。それなのに、いま目の前は真っ暗な状態だ。息がうまくできないとか、そんなダサいこと言いたくねぇよ。

shit

わかるよって頭の中で言い聞かせてても、わかんねーからダメなんだろって責めてる自分もいるし。仕事でつまずく時が、一番しんどい。もうすぐ潰れる会社に対して、不真面目な私は100%の心持ちで向き合えないよ。急がなきゃ!と思って作業しても、ケアレスミスが増えて怒られる。時間をかけすぎないように意識しても、タイムスケジュール的に限界もあるとか言い訳が出てくるし。上司は優しくしてくれるけど、その裏に隠された真意が怖くてたまんなぁ。どっかで指示受けて、雑務片付ける身にもなって?とか思ってら自分もいる。

誰を責めていいのか、自分をどこまで追い詰めるべきなのか、その案配が分からなくなっちゃった。こういう時に限って、社会人としての不適合な自分を悔い改めるのも遅いだろ。自分を責めても、誰かを責めても、救われないでしょ?知っとるけどさ〜

 

もう誰かの顔色をうかがったり、小さいことで凹んだら、自分を抑圧するの疲れちゃった。こんなにちょっとのことで泣いてたら、これから転職して新しい場所に行くのに、不安しかないよ。は〜

想像力に欠けるという、暴力

生きてると無作為に人の攻撃を受けたり、差別されたりする。もちろん自分も同様に、誰かを無意味に線引きして、思考の節約をしているだろう。

 

誰しも日々の生活において、すれ違う人々のストーリーなんて目を溜めない。外観だけの情報で、その人がどんな人間なのか判断する。何も感じなければそれまでだし、何かを思うにつれても深い意味なんて存在しない。目まぐるしい生活の中で、他人のシナリオに目を向けている時間はないんだから。

 

だからこそ、無作為に「偏見」と呼ばれても仕方ないことが起こるのかもしれない。それが本当に正しい表現なのか、わたし自身だって100の自信を持っては言い切れないけど。

 

みんなどこかで思考の節約をしているし、それはオッカムの剃刀のように、何かを端的に説明させるための術ではない。目を向ける物事への価値観の違いとも言えるけど、ただ考えることを節約してるだけのように見える。

 

青森県といったら?」

「りんご」

そんなやり取りを何食わぬ顔で答えるように、それぞれの価値観で思考を節約してる。限られた情報の中で、想像略を働かせることを失った人々は、残酷な表現で他人にレッテルを貼る。

 

わたし自身それを嫌という程感じながらも、どこかで他人にステレオタイプを押し付けていた部分もあった。想像略に欠けることで、とても愚かな言動が目立つ部分もある。

 

わたしが結婚した男性は、土木関係の仕事をしている。彼が仕事中、道行く男性に「汚い」というような言葉を吐かれたという。その話を聞いた時、とても心が苦しくなった。大切なものが他人に揶揄されている痛みと同時に、自分自身もこれまでそう言った偏見は0だと言い切れない事実に。

どんな仕事も立派であると、その話を聞いて幾分か経ってから考えた。

もちろん彼がわたしにとって特別な人間だから、という動機がゼロではない。ただ、この意見のに対する3割程度の意味合いには、職業で誰かを判断するべきではないという正義感もある。綺麗事だと言われてしまえば、そこで口ごもってしまうのも然り。

 

こういった経緯に基づいて、わたしは他人の無作為なステレオタイプに頭を抱えた。

思考を巡らせるも、結果に至るアンサーは要約すると「仕方がない」で済まされる話でもあるだろうな。しかし話は前後するにせよ、それは本当に想像力の欠片ける悲しい現実であることがわかった。

 

冒頭の話に戻ろう。

人々は常に、目まぐるしい社会の縮図に目を向けて生きている。街を歩く他人に対しての認知は、想像力を働かせることなく判断するのも間違ったことではないだろう。

 

結果、反面教師という言葉で何もかもを要約する気は無いけれど、自分はなるべくもっと想像を働かせて誰かを認知しようと思う。

 

・差別

・偏見

・イメージ

ステレオタイプ

 

これらが生まれる状況によって、その良し悪しも変わる。ただそれが必要である状況かどうか?くらいは判断できるよ。

また話を戻すけど、オッカムの剃刀でいうのうに何かを端的に説明するなど、必要な状況であれば武器になる思考節約だ。

ただそれを手当たり次第翳してしまうと、傷つく必要のない人が現れることもある。そんなものはあまりにも悲しいから、上記の言動において「然るべき時に利用するべきだ」という意思を強く持ちたい。

 

エッチしてお金をもらう人

コンビニでバイトしながら生計を立てる人

株やFXでぼろ儲けする人

スーツを着て会社に行き対価を得る人

工事現場で道路の補正をする人

 

経緯の裏側をこと細かく理解することは難しくても、わからないという状態で否定から入るのは悲しいことだよ。だから物事なんでもそうだけど、自分なりの解釈でもいいから、まずは知ることが大切だ。その上で、やっと主張できる権限をもらえる。想像力に欠ける人は、無知に等しいんだ。