コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

誰かの評価で敷かれたレールの上を歩く勇気

ワタシはずっと人に期待されることを恐れて生きてきました。父と母は素直な人ではなかったから、照れ隠しなのか、ワタシはダメな子供だと言い聞かせられて育てられてきました。ずっと誰かに認められる心地よそを知らずに、大きくなり。

 

大人になれば、誰かのフィルターに映るワタシの姿は彼らの色眼鏡で彩色されていきます。それは「期待」の眼差しを込めたモノと似ていて、とても怠慢なワタシはそれらを受け止めることができずに弾き返してばかりいました。「しおりちゃんは〜が本当にすごいよ」と褒められても、素直に受け止めることができずにいます。恐ろしくなるんです。彼らの評価で成り立つ自分が、その期待に果たして答えることができるのかと。いつだってワタシの言動は誰かという鏡に映し出されていました。

 

ある時、誰かに言われたことがあります。「あなたって、人の顔色を伺いすぎだよ」って。その一言で、自分がどれほど誰かの評価に怯えていたことか、気付かされたような気がしたんです。

 

「しおりちゃんは真面目だね、考えすぎてるよ、優しいんだね」

 

人から降り注ぐそれらの言葉でさえも、とても怖いものに感じるんです。ワタシは、本当は不真面目で、自己中心的で、すごく冷たい人間なのに。でも、真実を誰かに知られることも恐ろしく感じます。だからいっそのこと、自分からすべてを突き放してしまえば全ての悲しみを皇帝することができるんじゃないのか、傷は浅く済むのではないかと、自分を守ることばかり考えていました。

時には裏返すような気持ちを人にぶつけて傷つけてみたり、そんなことを繰り返していくうちに、どんどん孤独に苛まれていくんです。いっそのこと人を傷つけることしかできないのなら一人で歩いていこうと考えてみたところで、やっぱり寂しい気持ちを拭うことはできませんでした。

ワタシは一人でいることがとても下手くそな人間なのに、誰かと一緒にいることはもっと下手くそな人間なんです。大人になれば、ありのままを受け止めてもらえるほど、無性の愛は転がって居ません。それなのに何処で履き違えてしまったのか、いつからこんな風に傲慢チキになってちゃったのか、この歳になっても頭を抱えることがあります。

 

人から手向けられた愛情にうまく答えることができません。怖いんです、自身がないんです。無責任な愛情を注いで人の心が死んで行くのを見とって行くのは、とても怖いとだから誰にも見て欲しくな苦なる時があります。

 

ワタシは多くの人間に狂おしいほどの愛情を与えられて生きて居ます。では、その愛情をどれほどの数で返すことは出来るでしょうか。本当は寂しくて一人で泣いているはずなに、どうして自分から全てを捨ててしまうとするのでしょうか。

 

それでも声が聞こえるんです。「あげたいから、勝手に与えてるだけだよ」って、そんな言葉を浴びせてくれる人々にワタシは一生をかけても勝てることができません。人の愛は尊いモノで、それを背負う責任もないと怯えてばかりで、何処かで自分が気持ちよくなるために目を逸らしてしまうことがあります。

ワタシは誰かに気持ちよくしてもらってばかりでした。何かを与えたいと、喜ばせたいと思う気持ちは、本心なのかどうかすら、まだうまく把握することができません。

 

でも、きっと彼らは知っているんです。ワタシが馬鹿で傲慢チキで、本当にダメなことを、何処か知っていながら心を包んでくれる言葉を与えていてくれることを知っているような気もします。これはあまりにも、過信しすぎたと笑われるかもしれません。それでもワタシは、もう何かを疑うばかりではなく、誰かの評価の下で怯えるのではなく、その暖かい温もりの下で思う存分に甘えてみてもいいんじゃないかと24歳を迎えたいまは少しずつ感じることができます。

 

心を本当に委ねられる時がくるのは、きっともう少し先の未来かもしれません。それでいても、ワタシは少しずつ、凝り固まった肩を入念にほぐされて行くように、肩の力を抜いて誰かの優しさに心を委ねられる日がくればと望みます。

いつか其れらは、希望ではなく事実として変わって行くように、願いではなく真実として形を変えられるように。もっと多くの人の目を見て、向き合って生きたいです。

 

誰かの評価の下で涙を流すのではなく、誰かの評価の中で優しく笑えるような人にワタシはいつかなりたいです。ダメで弱くて臆病者で裏切り者の傲慢チキだって笑うのはとても楽だけど、ほんとうは「ありがとう」って言いたい。心の底から与えてくれモノを誠実に受け取っていきたい。

そして、いつか誰かのために、誰かにとって「あなたと居ると楽しい」と、心の底から笑顔を咲かせてしまうような、ズルくて暖かい人になる。