コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

心のライフハック運動

きっと、最初に飛び出してくる言葉は暑い。日が沈みかけた夏の夕焼けに煽られながら、彼とスーパーにお菓子とアイスを買いに行った。その彼に見つけた鬼灯。

 

突然ですが日々の仕事柄、来る日も来る日も嫌というほど文章と向き合う毎日です。そこで感じることは、好きを仕事にすることで趣味に対する熱量の変化・気持ちのすり減りが見え隠れすること。

何時ぶりに文章を書いてるだろうか。まあツイッターでは、度々140文字程度の思いつき心の捌け口を無下することも多々あるので、距離感としては高円寺から中野まで徒歩で歩くまでの感覚。広い視野で解釈するなら、形を変えても「書く」ことは自分の生活にひっそりと根付いている行為と言えようか否か。

どうしてもこういった「言い切り」に対して自信を持てず、曖昧に締めくくる癖がある。無限にある物事の答えに対し、自分が取捨選択したものを堂々と見せびらかすことはうまくできませんね。

 

こんな自問自答を繰り返しながら、変化する生活の中にも変わらないものが小さく根付いてる。そうしたものは、たまに立ち止まって、よく目を凝らさないと忘れてしまう。だって毎日いろんな情報量が更新されて、古い記憶や思い出は小さな箱に収納されていくから。そして、必要がないと感じたものは傷つかないように、そっと消失していく。だから失ったことにさえ気づかない。

もう少し若い頃は、その小さな失いに対して小さな感情を流用せてた。当時の環境からしてみても時間の猶予が大いにあったため、些細な物事に大きな目を向けては心を疲弊させてた。

いまでは当たり前のように早起きして仕事をこなし、帰宅後は簡単な食事を済ませ、カラスの行水。布団に入って、明日に備えて体を休めるルーティーンを繰り返してる。目まぐるしいとは言い切れないけど、それなりの毎日を送ってるね。

こうした生活の四隅で必要となるのは、心を疲弊させないテクニック。時にそれは、自分の心をカモフラージュするライフハックと形容してみる。

ただ味を締めてしまうと、古くなった過去に対して、気持ちがおざなりになってしまうことも多々ある。時には歩くことをやめて風化しかけている記憶に目を向けると、忘れて欲しくなかった自分自信の感情が息を吹き返すことが度々あるんだ。

 

私はよく「他人に忘れて欲しくない」という気持ちを抱く。「さよなら」や「お別れ」よりも、誰かに忘れられることが一番恐ろしいと感じる。しかし、その裏側を紐解いていくとで行き着いたものは、自分自信で忘れてしまうことの恐ろしさだったんだ。

日々の変化という話に戻ると、その中で自分が一番忘れたくなかった記憶・感情さえも消化されてしまう恐怖が潜んでる。これこそ「忘れないで」といった掲示欲の源かもしれない。本当は誰かじゃなくて自分自身が忘れないように、メモ帳がてら社会に発信してる気がするんだ

 

果たして、そこまでするほど過去の記憶に重要な価値観が残されているのか?過去の価値観をいまもかき集めようとする根底には、自己への期待・陶酔・引き継がれたものなど、さまざまな要因は存在しています。そのすべてに共通するものは「君は君のままでいんだよ」という安心が存在していること。

 

過去と今の価値観を照らし合わせると、変化したものはたくさんある。そのどちらにも言えることは、過去や未来の答えは今この瞬間に生きる自分にとってYESでしかないこと。このYESという答えが「君は君のままでいい」という安心感の表れそのものだ。

 

だって変化する日々の中で、度々自分は何者なんだろうか?と自問自答を繰り返すことがあります。そこで需要なのは過去・今・未来の繋ぎ目でしょう。その全てに共通項目を見つけ出せないと、自分とは何か?不安要素になる。

どの時を生きるときだって、「あなたは、あなたのままで大丈夫だよ」という確信と安心を欲してる。これは変化することへの恐怖ではない。自分という自己をエビデンスに基づいて立証するための、手段なんだ。

 

 

 

人間の人生なんてあっという間だ。生きてるとあっという間に、すぐお爺ちゃん・お婆ちゃんになっちゃうね。誰しもが尊い生き物として、自分なりの答えで傷跡を残すために、何かに害を与えたり、益を与えたりしている。その中でいろんな人々と関わりを持ちながら生きることの意味を見出して、死ぬことの恐ろしさを明確にしていく。それは能動的にではなく、本能的に行われる衝動。

その中で私は心ライフハックをできるだけ賢く運転しながら、あなたのままでいいよ、という力強い安心感を抱きしめて、今日もここに傷跡を残していきてます。