「生きる・死ぬ」の取捨選択
過去の私は、死に近い場所で生きる安心感を持っていました。しかし今の私は生きることに近い場所で魂を燃やしています。
人間様と畜生を比較すると、「心」という作用に大幅な違いがあります。動物は本能のままに生きることに闘志を抱きますが、人間は何十種にも例えられよう感情で「生きる・死ぬ」を故意に選択することができるでしょう。
この「生きる・死ぬ」の選択肢にも個人差があり、
- 生きることへの選択
- 死ぬことへの選択
- 生きること、死ぬこと双方の選択
大きく分けると、この3つに区別されます。
1.生きることへの選択
生きるこのみ選択する人間にとって、死ぬことは生理現象・不慮の事故など、止む得ない状況によって発生する概念とみなされます。自ら死を選ぶ概念は、彼らには根付いていません。
2.死ぬことへの選択
死ぬことのみ選択する人間にとって、生きることは「苦しい」という概念に繋がります。彼らは「生きること」に対峙しているといっても、過言ではないでしょう。また、自ら生きる道を選ぶ概念は根付いていません。
3.生きること、死ぬこと双方の選択
生きる・死ぬ、双方の選択を持っている人間は、その時々によってカメレオンのように感情の動きを示します。しかし両方の感情が同じ時に達する可能性は低いと言えるでしょう。稀に2つの感情が誘発されますが、その圧力から死への比重が大きくなります。
このように人間を大きく分けると、上記3種に分類できると考えましょう。
では、これらの人間はこの世に産み落とされると同時に、どのような分岐点から3つの方向に枝分かれしていくのでしょうか。
まず、この世に産み落とされた赤ん坊の段階では、人間特有の能動的な意識は存在しません。 そのため本能として「生きる力」が作用します。しかし成長の経過とともも、アイデンティティの形成によって、心の種類が膨大な量に達していき、「生きる・死ぬ」の取捨選択スキルを身につけていくのです。
※補足
アイデンティンティ・心の種類には、個人差によって大小が異なります。これは他者との関わりによって、大きく関係していきます。こちらについては、詳しく後術していきましょう。
では、なぜ生きる人間・死ぬ人間・生きる死ぬのどちらも選択する人間、が存在するのか。これは私たちの生きる社会が大きく関係しています。
そもそも何故「生きる・死ぬ」の選択に関する概念が存在するのか、それは人間のパーソナリティが大きく関係しいます。これは人間同士のコミニュケーション(社会)によって、大きく左右されていくでしょう。その社会でどう動くかによって、生きること・死ぬことの概念は容易に見出すことができてしまうのです。
そこで重要なのは他者との意思疎通によって起こるアクションです。そのアクションによって、
- どう向き合い
- どのような形に変えて
- 吸収を得るか
これらが「生きる・死ぬ」ことへの概念に、大きく関係していくでしょう。
こればかりは個人の感情によって、向き合い方・形・吸収力は多種多様になります。そのため「こうしたほうがいい」と言われてるような、世に出回る定説で全ての人が納得のいく答えを見出せるわけではありません。
ここからは、私自身の体験から得た「死ぬことの希望から生きることへの闘志に変わるための変化」についてご紹介していきましょう。