コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

美味しいご飯が食べたい

どうしたって相入れることのできない人間は世の中に腐るほどいる。その手を伸ばしてくれようとも、振り払わなければいけない時がある。それが残酷な仕打ちだとしても、いまという時間を生きる自分にとっては、大事な選択(選択)である時がある。だから私は突き進むしかない。失ったものへの葬いとして、幸せになるという答えを有言実行するしかない。

 

いろいろなことを日々、考えているよ。自分という人間を誰かの中に投影して、どういう身の振り方が大事なのか試行錯誤してる。もう泣きわめいて血を流したり、死を扇ぎながら生きることは、あまりにも窮屈すぎると感じるから。

 

いま、毎日は充実している。落ち込むことや凹むこと、愛する人と喧嘩をして気持ちが煮えたぎることもたくさんあるよね。でも、正しく生きるための答えを見つけたから、全部大丈夫になる確信を強く抱きしめて生きてるんだ。

仕事でも悩むことは増えてるけど、日々の中で成長を目の当たりにしてる。それは小さなことの積み重ねだけど、切磋琢磨しながら生きるということの本質あやっと見えてきたように思うんだ。だからもっと、何があっても頑張りたいという向上心だけが心を奮い立たせているんだろうな。

 

気持ちに余裕がないわけでも、日々が苦しいわけでもない。ただ自分という人間の変化と共に、必要なもの不必要なものへの取捨選択が目立ってきた。側に置くもの、距離を離すべきもの、各々に対する見方が鮮明になってきたように思うんだよね。

 

昔は誰かにとってのいい人になりたかった。不特定多数の人間に必要とされることで、自分の存在価値を見出していたよね。だからこそ手に取るように、人の求める言葉や物腰をわかって(分かった振りをして)、丁寧に装飾したそれらを用意してた。そこに自分のアイデンティティなんて存在しなかったよ。「この人は、こういう人がいいんだ」という憶測を立て、他人の敷かれたレールを正しく歩くことに専念してた。そんなものは本当に、ハリボテでしかない。

自分が本当に何を望んで、誰かに対してどんな言葉を打ち明けたいのか、そんなことすら不明確になってきた。簡単にいうと、誰にも本音を打ち明けることができなくなってたのかもしれないと思うよ。

 

成人を通り越して、5年を過ぎてもわからないことや、間違えることはたくさんある。いままで取り残してきたものを、いまやっと拾い集めて正しく整理しているところなんだ。その整理の過程では自分が気持ちよく生きるための鍵を探してる。

 

だからこそ、やっと相入れるべきではないものを失う選択を手に入れることができた。誰かにとっての「良い人」になるより、優しく強い人になりたいと願った。そこで選択するべき言葉の節も少しずつ変化していったと思う。それはあまりにも身勝手な言動だったかもしれない。でもどこかで、それでもいいという確実な決断力があった。多分、無意識のうちに失う準備をしてたと思うんだ。

 

もうこれ以上、無理して自分の見たくない世界を見続ける必要はないんだってことに気づいたよ。「そっか〜私はやっと幸せになりたかったんだ!」って思い描くことがね。下を向いて歩くより、少し顔をあげて前に進むことでいろんな景色が見えたよ。風邪が強くて顔を覆いたくなるけど、振り絞った力でその抵抗に歯向かうと、案外と気持ちいいがひょっこり顔を出して待っていてくれた。そういう世界に味をシメちゃったんだね。

 

悲しみは手軽なジャンクフードみたいに、美味しくて、一過性の生活をやり過ごす力が強い。でも幸福は手間をかける必要や、失敗などの躓くリスクは多いけど、出来上がった時にはとても美味しい料理ができるんだ。何よりも、そのリスクには次回作への導きが詰まってるからね。

だから私は、美味しいものをたくさん食べて生きたいって知ることができた。きっとそれが心の元気にシンクロした答え。

そんなものは全然難しくなくて、結構ね単純。でも、そこにたどり着くまでにはいろんな感情の糸が絡まって、解くのが困難な状況に陥ることも多々ある。そういうときは思い切って結び目をハサミで切ってみたら、スムーズに進む。その勇気を出すのは、ある程度のキャパシティや思い切りが必要だけどね。

 

だから私は笑うことができる。周りの人々の支えはもちろん、自分自身が死ぬ想いでいろんな争いという実験をしたお陰なんだ。

いまだって、心はとても脆い。でも「休憩」という技を覚えたので、とても強い。こんな休日の昼下がりでさえ、あとで美味しいパスタを作ろうと考えている。

だからお父さんは言ってくれた。「お前が本当に幸せで元気になってくれてよかった」と。

 

 

 

いろんな苦労や悲しみを背負っている人はたくさんいる。仕事と同じように、人生も結果が重要なんだ。地団駄を踏んで時間をかけたのであれば、その代償に見合った結果を出さなければ、それらの苦しみさえ水の泡になる。

私は自分が経験した苦しみや悲しみ、愚かな現実に対する報復を与えたい。多くの時間の中で得たリスクを「幸せ」という結果で葬りたい。こんなに長い時間をかけて色んなものを見て、足踏みしてきたんだ。自分のための投資だと思って、最後は笑いたいじゃないか。だから苦しみ・悲しみを無駄しないように生きたいと思うよ。

どんな経験をしても、その事実を今後の行動に反映できなければ、ただの無駄な時間でしかない。やたらめったら腕を切って、自分の体や心、周りの人間までも疲弊させて、最終的には腐って死ぬなんてダサくて嫌だな。

今まで培ってきた時間を無下にしないために、こうやって日々結果を意識して生きてる。美味しいご飯にありつめるためのスパイスだと思って、今を楽しむことができる。だから私はお先にここで、一抜けぴ。