コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

過去と現在

ここ数年で変わったこと


毎日ちゃんとお風呂に入るようになったこと。そして体と頭をちゃんと洗ってる。出かける前には歯磨きをするようになったし、化粧水や乳液などを使って最低限のスキンケアをするようになった。暴飲暴食が少しずつ減っている。「ごめんなさい」と「ありがとう」が言えるようになった。家族を愛せるようになった。リストカットをする機会が減った。死にたいと思う機会が減った。

守りたいもの、失いたくないものが出来た。


稀に、自分をよく知る人からはすごいねとか、頑張ってるねと褒めてもらえる。自分でも本当にそう思う。
でも本当はすごいことでも偉いことでもないのを知ってる。そこに守りたいものと失いたくないものがあるただそれだけなんだ。それは凄いことでも、偉いことでもない。成るように成ってるだけ。

自殺未遂を繰り返したり自傷行為を繰り返したり、悲しみに打ちひしがれていた過去の自分を振り返っては、当時の環境自体に悲しい自分が肯定されて許されていたのでダメになれたんだと考えた時があったよ。

要約すると負の感情が「許される」場所に立ってた。

悲しい自分が許されてしまう過程の一つに、守りたいものや失うものがそこに無かったという理由が上げられる。
自傷・自殺祈祷」を起こしても、物理的な環境の変化は現れないし、周りの人々は悲しみと憐れみに加えて呆れた顔を浮かべるだけ。みんな暗黙の了解で目を伏せているだけ。何も失うなんて思いもしなかったしずっとこのままだと思っていたからだ。

今となってはアルバイトをして一人暮らしを始め、職場の人と仲良くさせてもらっている。自分の稼いだお金で好きなことをしたり、一人で悠々自適に暮らしている。
また同じことを繰り返してしまうようならば閉鎖病棟に送還され、愛している男はどこかに消えて無くなって、たったそれだけの行動をしでかしてしまったばかりに寄せ集めた大切なものたちは泡となって消える。

守りたいものがたくさんある。好きな男と一緒にいるくだらない時間、バイト先での些細なコミュニケーション、この部屋もこの暮らしも全部失いたくない。だからこそ働くし、お金を稼ぐし、死なないし、生きるしかない。
そんなことは偉いことじゃない。棘のない当たり前。