コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

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続きです。いや、いつだってワタシの言葉は断片的で続きは存在しません。毎日、違う人間の感情を背負っているような気分で、筋が通っていません。それでも一人の人間として生きています。

 

だから許してほしいなんて、それは傲慢な話なんです。まだ人生の折り返し地点にも到着していません。意外と生きている時間は、想像を絶するくらいに長いから、気持ちよく生きる為の工夫をもう少し身につけていくべきはずが、スキル磨きが足りませんね。

 

お母さんとお父さんはいつでもワタシを心配してくれます。弟もワタシをとても、心配してくれているようです。昔話ですが、ワタシがたくさんの薬を飲んで病院に運ばれた時、弟は泣いていたそうです。居なくなる、消えてしまう、それはあまりにも残酷でずるい行為だと思います。でも分からないんです、その不安がワタシにはどうしても。

 

きっと少し大人になって、「こうしたら相手は悲しむ」という事実はわかりますが、その悲しみはワタシの心に未だ浸透していません。だからと言って、ワタシの心は空っぽではないので、きっと人が死ぬと哀しいし、傷ついている姿を見れば暖かく包み込んでいあげたいという感情は芽生えます。あくまで憶測の話なので、実際に行動へ移したことはありません。

誰かを心配に思う気持ちが分からないんです。自分を大切にできない人が、他人を大切にできないという正論は、あながち間違っていませんね。ワタシは自分の心も体も共に、あまりにも大きなものを長い時間かけて無下にしてきました。そうすることで他人と労わる気持ちや慈しみといった、大事な感情をどこかへ置き去りにしてきてしまったようです。

 

あの時、職場で倒れて掛けられた毛布の香りも、その優しさも、すべてワタシには惰性として食べる甘味とした存在でしかないのかもしれません。誰かに愛されていることも、愛していることも、難しいですね。

 

たまに家族を見ていると驚くことがあります。何気ない優しさや、人を思う気持ちや振る舞いなど、恐ろしくなることがあるんです。また昔話ですが、母親が子宮頸がんで倒れた時でさえも、「どうせ死なない」という気持ちを抱えながら一人で東北に旅立ちました。手術室で母の経過を深刻な面持ちで待つ父と、涙を流しながらひたすら待つことしかできない弟。母は無事に手術が成功して帰ってきました。「よかったね」という気持ちより先に、「やっぱり死ななかったね」という感情が勝るような、人を思う気持ちに欠けた人間であることが、とても恐ろしく感じます。

 

きっとワタシはいま思うと、愛情を持って育てられました。それは少し、遅すぎたものだったかもしれないけど、母と父は壊れたワタシを一生懸命に労ってくれました。それでもどこかで誰かの思いやりを受け止める受け皿に日々が入り、穴が空いた容器に愛情の水を注がれていたとしても、少しずつ漏れ出してしまうんです。応急処置もままならないまま、酷使するばかりに修復不可能になっていくばかりなんですね。

 

まだワタシは若いです。25歳にして、愛情の受け皿が壊れ始めているいま、修復することはできるのでしょうか?いまからでも正しいことをきちんと受け止めて、歩き出せるのでしょうか。このまま生きていった場合、ワタシは何者になってしまうのでしょうか。助けてくださいとは言いません。

ワタシ

自分が哀しいのか、悲しくないのか、きっとどちらにしてもれっきとした事実なので真相を突き止める必要はないです。

 

仕事を休んで、分厚い小説を一冊読み終わってしまいました。いつだって三月という季節は物語に愛されている季節ですね。生きています。唐突二話が切り替わってしまうのは、本来ならば正しくない文章構成ですが、エッセイや小説や詩の正解ではイレギュラーが許されてしまうので、今は許してください。

 

こんなにも、どうしようもない体と心を引きずって生きていようとも、しっかりとお腹は空くし眠くなるのは不思議です。心が疲弊して病院にいっても「うちで診察できません」と突き返される日々を繰り返しています。今年で25歳になるのに、まだ大人になれません。怒りも悲しみも、ワタシにはうまくコントロールができないのです。きっと、どうにかなるという甘えが心の底に潜んでいるのでしょう。天気はとてもよいあまりに少しだけ、汗ばみます。まだ夏の名残が残っているようですね。

 

今日はとうとう、心が疲弊している時に見る夢を見ました。学生時代の夢です。とはいってもワタシの学生時代はとても短く、ほんの数年しか経験していません。いまこうして社会人となり、幼い頃のしがらみから解放された今でも、心の奥底にはあの頃の不安や闇に近い何かがこびり付いているようです。不安になるといつも同じ夢を見ます。中学生から高校生にかけて繋がっていた人々が鮮明に、夢の中へと忍び込んでくるのです。彼らの中でワタシという人間は、新しい時間の更新によってかき消されているはずなのに、それでもまだかき消すことのできない過去が付き纏っています。

いつでも過去に怯えて、本当に立ち直れないほど、疲れている時に限って、これみよがしに古い記憶が首を絞めます。きっとあの頃に比べて成長したし、きっと幸福なはずなのに、どうして未だにワタシを捉えて離さないのでしょうか。

 

生きていると哀しいことは、数え切れないほどあります。楽しい記憶さえもかき消してしまうほどの、哀しい思い出がたくさんあります。それでも、前を向いて歩いていくことは自分の人生にとって義務なんです。

 

あのね、大人になると、とても自由になります。子供の頃のように、大人に敷き詰められたレールの上を歩くのではなく、己の取捨選択の中で、よりよく生きる為の不自由を作り出していくのです。でも、ワタシには未だに、その不自由を作り出すことができません。自由いう残酷な現実の元に晒されて、途方にくれながら、正しい選択から逃げて生きています。歳を重ねるごとに、幼い頃に敷かれた大人のレールが愛おしく感じるのです。

 

そもそも、ワタシは正しい大人のレールを敷かれていたのでしょうか。どこから間違ってしまったのでしょうか。いいえ、いま此処に立っている事実は答えであり、正解不正解は存在しません。でも我が儘が嵩じてか、自分の立っている場所がとても疎ましく思います。「しおりちゃんは将来どうなりたいの?」と聞かれたことがありました。しばらく頭で考えてみても、10年後の自分を想像することができません。

ワタシは無責任で、弱くて、だらしなくて、ダサいので、こんな感情を引きずったまま将来のビジョンを組み立てることができません。きっとそれでも、人より多くの物事を考えて、使いもしない未来を掲げながら、報われないプライドを育んでいくことでしょう。ワタシはとても真面目で、不誠実な女なので、しばらく幸せにはなれそうにありませんね。あはは

いやだ

体が溶けそうになるくらい重い。仕事に行けず、涙も止まらず、夜もあまり眠れない。いっそのこと「死」という感情さえ頭の中に過ぎるほど、あまり元気がないのかもしれない。職場に休みの電話を入れる瞬間が、すごく気持ちが沈む。どうしてこんなに情けなくなってしまったのだろう。あれほど頑張ろう思っていた気持ちは、どこに捨ててきてしまったの?なんで、こんなにも哀しいのか原因は不明だ。頭が痛くて体がものすごく重い。もう、いやだ。