コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

あなたの記憶の中に私はもう居ないけれど

なかなか実家に帰ることもできず、タイミングもあってしばらくの間祖母に会うことができなかった。

今年は彼女に会いに行こうと、「明けましておめでとう」を伝えに会いに行った。久しぶりに見るおばあちゃんは随分小さくなっていて、あの頃の活気はもう失われていた。痩せ細ってしまった体、冷たい手。

お土産にはおばあちゃんが大好きだった茶屋のプリンを買って行ってあげた。それを少しずつスプーンですくって口に運ぶと「すごく美味しいね」とゆっくり咀嚼して飲み込んでいく。

 

「しおりだよ?久しぶりだね。なかなか会いに行かなくてごめんね。」

「だれですか?わからないわ」

彼女は少しよそよそしい態度で、他人行儀なそぶりを見せた。

もう彼女の記憶の中に私は存在していなかった。

 

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生まれたときからずっと一緒だったおばあちゃん。色んな映画や音楽、小説をたくさん私に教えてくれた。幼い私の無理なリクエストにも頑張って答えて一緒に遊んでくれた。

わたしが中学生を境に、彼女はアルツハイマー認知症を患ってしまい徐々に彼女は変わってしまった。思春期というのもあって少しずつ溝が出来てしまい、祖母のことで頭を抱え、家族全員がノイローゼになってしまうかと思うほどに介護に悩んだ日々もあって。家族共々、きっと祖母も含めて精神的に疲れ切ってしまっていた。

大好きだった祖母も、いつしか家族の厄介者となってしまい、追いやられてしまうような形に。それは今思うと仕方がないことだったと思うし、それ以上に悲しいことだったと思う。

 

私が19を迎える手前だったろうか、祖母が老人ホームへと引き取られることになった。

 

それからというもの、家を開けることの増えたわたしは祖母に会う機会が段々と指で数えるほどになってしまった。

父や母は熱心に彼女のもとを訪れ、度々近況報告などを聞いて。時間があれば彼女のもとへ訪れた。少し距離の出来た私たちの関係は少しずつ溝を修復していくように祖母に優しくすることができて。穏やかな時間がそこには流れていた。

 

それでも残酷にもアルツハイマー病は彼女の記憶や精神を蝕み、どんどん色んな記憶が霞んでいってしまった。誰にも止めることはできなくて、久しぶりに会いにいけば誰が誰だか分からなくなってしまうことも度々あった。

それでも大きな声で自己紹介をすれば、思い出したように、にっこりと微笑んで「来てくれてありがとう」と言ってくれた。

 

少しずつ、ゆっくりと色んな人の記憶が消えて無くなり祖母はいつかひとりになってしまう。残酷なまでに、様々な思い出を記憶から消し去られ一人旅立っていく。

 

今年で90歳の大所帯。90年も人生を生きるとは、24歳のわたしには想像もできない時の長さを彼女は生きて来た。

老い先短い人生の中で、彼女は絶えず色々な物事をリセットして旅立つ準備をしていくのだろうか。

 

父の母を思う気持ちや、愛する母親に少しずつ忘れ去られてしまう締め付けられそうな恐れを押し殺して優しい笑顔で接するその姿は胸が苦しくて見るに耐えなかった。

それでも一生懸命、今ある時間を消化していくように彼は母親に話しかけ続ける。「元気そうでよかった」って

 

 

 

もっと優しくしてあげればよかったって。もっと感謝して、もっとごめんなさいをたくさん言いたかったって。あなたの記憶の中にわたしが残っていた内に伝えたい言葉がたくさんあったのに、もう届かない。

失ったものは二度と戻っては来ることはなく。

あなたが私の名前を呼んでくれる日はもう訪れることはないんだよね。

ごめんなさい、おばちゃん苦しいです。

 

あなたに会えるのも、あと片手で数えるほどしか残されていないかもしれない。再び顔を合わせれば、あなたの中で私は「知らない人」として認知されてしまう。

それでも、私の記憶が確かに続く限りはあなたのことを忘れずにいたい。あなたが生きている限り、残された未来の中で新しい時間を築いていきたい。あなたの記憶に残ることが出来なくても、その一瞬だけは二人にとっての確かな事実として其処に刻まれるから。

 

「冷たい手をしてるね」と握ったわたしの手を強く握り返してくれた感触はあの頃と何も変わらなくて泣きそうになってしまった。

 

大好きだよ、おばあちゃん

たくさんの素敵な思い出と出会いをありがとう。 

 

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2016年

2016年

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出会いも別れもあった一年だった。それはきっと去年も同じようなことだったと思う。

 

年明けは大好きな人と一緒に新しい年を迎えた。

2016年当初はセブンイレブンバイトに奮闘し、中国人店長と折り合いが合わずにドロップアウトをしたり。

新しい仕事を探すために初めての古着スタッフに奮闘した春の幕開けを告げる時、面接を終えた帰りに夜勤帰りの彼と散歩をして。とても心地のいい匂いのする古本屋さんを見つけたことを今でも覚えている。

古着屋では様々な出会いがあった。個性的な先輩方に支えられて、初めて仕事に対する誠意とやりがいを感じることのできる職だったかもしれない。

春が終わる頃に彼とはじめてフクロウカフェに行き、まだ少し冷たい夜風を浴びながら二人で秋葉原から家までの長い道のりを歩いて帰ってたり。初めて出会った夜に上野から家路までの道を思い出し、二人で思い出話をしながら帰ったりもした。

 

五月を迎える頃、お互いの仲に「溝」を感じてしまい。いつの間にか自分の中で空虚な気持ちと闇を作り出して、大雨の真夜中に腕を血まみれにしてしまった。何がどうして其処まで自分を追い詰めてしまったのか。

私も、そして彼も悲しい気持ちでいっぱいいっぱいになり、五月の終わりを迎える頃に二人の関係も終止符を迎えた。

悲しみに打ちひしがれ、どうすることもできず、ただひたすら夜の街を彷徨ってた。

最後に彼とゆっくり言葉を交わした夜。缶ビール一本二人で飲みながら「映画見たいだったね」と最後は二人で笑いあった。一緒に布団に潜り、優しく抱き締められながら穏やかな眠りについた最後の夜。

次の日、仕事で家を空けた彼のいない合間に部屋を隅々まで片付けて、一人で荷物をまとめながら涙が枯れるほど大泣きをした。これでもかと言うほどに、押し潰されそうになった精神を抱え込んで壊れてしまわないように泣いた

 

その間に新たな出会いもいくつかあれど、結局どれも報われることなく、相変わらず彼を忘れることが出来ずに満たされることはなかった。

 

実家に帰ってからもしばらくは古着屋の仕事を務めていた。

少しずつ精神的な部分で縺れを感じて、結局ドロップアウトしてしまった。仕事をやめて何も守るものがなくなってしまい漠然と毎日を過ごしていた。

 

満たされることない気持ちを埋めるべく新たな出会いを見つけ、目的もないだらしない関係を一人の男性と続けた。彼の家に遊びに行き二人でご飯を作って、なんの目的もない日々を淡々と過ごした。

「しょうもないサブカル映画みたいだね」と苦笑いしながら抱き締めた彼のセリフは今でも記憶の中に鮮明に残っている。きっと互いに『好き』と言う気持ちはどこにも存在しなくて。真夜中にふと放った彼の「付き合うと終わりがあるから、もうなも失いたくないから、彼女にしたくない」という言葉は今でもしょうもなくて腹立たしく思う。

 

暑い夏を迎えて、様々な人々が実家へと遊びに来た。

江ノ島で写真を撮ったり、スラムダンクの踏切で写ルンですを片手に写真を撮ったり。真夜中の公園で弟と三人で花火をしたり、ブランコから落ちたり。いろいろな思い出を残して彼女は大阪へ帰って行った。

東京から来たら彼女と鎌倉の海で酒を交わし、ナンパされた男に連れ回されてレストランへ。なぜかポテトでポッキーゲームが始まったり。本気で相手がロックオンをしてきたところでお別れ。家路についた彼女のTバックを見てドキドキした。

7年ぶりに再会した高校の友人が子連れで泊まりにきて。子供の面倒を見るのはやはり大変で、同じ視点に立って同じテンションでものを見るのはとても疲れた。それでも子育てに奮闘する彼女の母親としての優しさや、健気に生きる子供の尊さえを眺めていると心が暖かくなった。

 

そんな7年ぶりの彼女との出会いを経て、人生はじめてのキャバクラ勤務もはじめた。おじさんにいろんなものを買ってもらったり、新たな出会いがあったり。男性との接し方やトークスキルなど様々なことを学ばせてもらった。決して楽な仕事ではないけど色々なことを学ばせてもらえるいい機会だったかもしれない。

毎日身を粉にして働いて、精神も心もボロボロになり夜中にキッチンで泣きながらいつの間にか眠っていることもあった。

 

そんな夏も真っ盛りの中、まだ癒えることのなかった彼への気持ちを本人に打ち明ける機会を設けてもらえる時が訪れた。

もう二度と会うことはない、言葉を交わすことはないと思っていたあの頃。荷物のやりとりという義務連絡を通しながら、たわいもない言葉をつらつらと毎日交わすことが増えた日々。終わりが訪れてしまうことを恐れて「おやすみ」というその一言が言えずに淡々とやりとりは続いて。

いつのまにか隙間のできた時間が再び繋がり、またこうして一緒に歩むことのできる時間が続いていくことを幸せに思う。

 

 

それからと言うもの、仕事に奮闘し、夏も終わりを迎える頃には友人がカレーを作りにきてくれたり。

岡山から友達が遊びにきて、新たなコミュニティを築くことができたり。

 

暑い、けだるい夏を過ごしたあの子は元気だろうか。最後に捨て台詞のようにぶつけられた「君のことなんて全然好きじゃなかった」という言葉は、振り絞った抵抗だったのかもしれない。

 

出会いも別れもあった。

失ったものが再び蘇る年でもあり、人と人との繋がりを大切に思える年でもあった。

 

たくさん怒ったし、たくさん泣いたし、たくさん笑って、たくさん愛された一年でもあったかもしれないと思う。

 

私はあいも変わらず不甲斐ないばかりで、だらしないところも、まだ一人で地に足をつけて生きることもままならない。それでもそれでも、少しずつ年を重ねるごとに気づかされるもの増えて。

当たり前はなかなか難しいけど、少しずつ自分なりに今できることから消化していけたらと思う。ダメなところは改善して、いまできることを褒めてあげたい。

 

 

彼女たちの苦しみと他者

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メンヘラという名前の閉鎖病棟があるとするならば、俗に言うメンヘラと呼ばれる少女たちはそこに閉じ込められている。一時退院や入退院を繰り返すもの居れば、いつまでも其処に身を染めてしまうものもいるだろう。

「一時退院おめでとう」

少し気持ちが向上したと思いきやに一時退院が決まったとしても、再び急降下に落とし込まれて救急入院しなくてはいけないかもしれない。未来はいつだって不確定なものだから、これからのことは誰にもわからない。些細な衝撃でメンヘラ病院に閉じ込められてしまう。一度入院してしまうと、そこから抜け出すための治療は道のりは未知数で。再びすぐに外出許可が降りるかもしれないし、しばらくの間は収容されて閉じ込められたままの日々を送らなくてはならないかもしれない。

 

最近はとても幸せに暮らしている。きっと「死にたい」という言葉の根元にあるのは苦しいじゃなくて、怠惰な生活の中で喜びもなく生き続けることに対する『生きて居たくない』という言葉から生み出されたものなのだろうと思う。今は毎日刺激がある。退屈ではないし、目標も愛する人も、守るものある。

私は幸せに生きているけど、幸せを感じれずに生きている人々もいる。

彼女たちを蔑もうとも哀れむようなこともしない。彼女たちに送る「幸せになってほしい」という言葉は果たして正しいものなのか。彼女たちにとっての幸せは、自らの身体を傷つける(癒す)ことなのか?個人の幸せの価値観は人それぞれで、誰が何をしようとも当事者でしかその真意は分かり得ない。そして、彼女たちの中にあるその悲しみや苦しみは真実でしかないのだ。

私はどれほどあの時が苦しかっただろうか。いまこの瞬間にも、大量の薬を飲み腕を切り続ける人々のことを思って感情移入することができるだろうか??私はもう、悲しいことにあの頃の苦しみを当時の鮮明な気持ちとして思い出すことは出来ない。ただとてつもなく「苦しかった」という過去の事実として保存されて居ても、そのディテールは既に少しずつ風化していっているのかもしれない。

リストカットをする人。薬を大量に飲んでしまう人。かつて私もそうであり、かつてと言えるほど遠い過去の話でもない。ただ現状の真実と向き合おうとするのならば二度と同じことを繰り返したいとは思わないんだ。

それは何故だろう?と考える。

私にはちゃんと、それを食い止めてくれるものがる。閉鎖病棟に入院した事実。自傷をすることにより後戻りのできない本当の全てを失ってしまうこと。食い止めてくれる環境がそこには存在する。それが他者から見れば些細な動機付けだったとしても、私の人生にとってはとても大きな鍵になっている。自傷自殺念慮が許されない環境の中で私は生きている。

きっと、ダメと言っても繰り返してしまう人は多くいるだろう。私もそうやって過去に何度も自殺未遂と自傷行為を繰り返してきた。でもそれは、ダメのうちにち入らなかったんだ。きっと何処かで許されてきた。親や恋人や友人や身の回りにいる人々に許されて生きてきたのかもしれない。「またやっちゃったのか。やってしまったものはしょうがないね」って、どんどんその行為が特別じゃなくなって周りの人間の中で当たり前になっていく。それに慣れてしまうことが怖い。本来、ダメなことも良いことも自らの意思で突き通してきたそれによって曖昧になってしまう。そして新しく介入してきた物が「自殺はよくない。自傷はよくない。」と提言したとしても、この人は自分のことを理解してくれない人間だと突き放してしまう。本当の正しさでさえ見失ってしまう。

私たちはもう子供じゃない。「危ないからやめなさい」と止めてくれる大人はもういない。発達した言葉と未熟な心を武器に、どうにでも言い換えられてしまう。自己判断の世界の中で、良いことも悪いことも曖昧になってしまう。

だって本当は自分を傷つけてはいけないなんてものすごく当たり前なことなのに

そうせざるおえないという言葉のまやかしに身を委ねていたのか。きっとそうするしかないことも事実ではあると思う。それはきっとかつて当事者だった時の気持ちの名残なのかもしれないけれど。

 

それでも、私がいまここまで回復できたのは自分の力だけではない。周りの多くの人々からの「ダメ」という言葉があったからだと思う。人で人を変えることは出来ないけど、人を愛する自分自身を育むことによって直接的ではないにしても、人で人は変わることができるのかもしれない。

大昔にわたしは「君は本当に思いやりのない人だね」と自らを傷つけた時に言われた。自らを傷つけることにより、他者がどれほど傷つくか考えてもどうしてもわからなかった。私は自分を傷つける側でしかなくて、他者が自分自身を傷つけてしまわれる側に立ったことがないから理解できないと思っていた。

それが恋人でも家族でも友人でも、自分を傷つけるという行為よりも、自分の苦しみよりも勝る他人に対する愛が勝ることがこれまで一度もなかったのだと思う。いつだって私が一番苦しくて、誰が傷つこうとも自分の痛みが最優先だった。誰かを思う余裕もないと言わんばかりに血を流して、周りは涙を流していた。

見て見ぬ振りをしていたわけではないけど、彼らに対する思いやりが自分の苦しみを勝ることはなかった。ただそれだけなんだと今になって思う。今こうして、現状は薬も用法用量を守り、健康的に服用して自傷することなく生きているのは自分の悲しみより他者への愛情が勝っている証拠なのかもしれない。

 

これをふまえて、話を戻すと。彼女たちが薬や刃物に手を出してしまうのは、まだ自分の苦しみを超える他者への思いやりに出会って居ないだけかもしれないと思う。それはあくまでわたしの主観なのだけれど。きっとそれだけ、彼女たちの闇は深いのかもしれない。当事者ではない赤の他人は憶測を立てることはできないけど。ただそれを、「思いやりのな人」と一瞥してしまうのはあまりにも簡単で残酷ことだと思う。

 

他者を思いやる気持ちが足りないわけでも、余裕がないわけでもないと思うんだ。ただ自分の苦しみを引き止めてしまうほどまでに思いやれる人が現れたら少しは世界も変わるのかもしれないと思う。そうやって少しずつ、誰かを想う気持ちと自分を大切にする気持ちを育んでいくのかもしれない。

 

私は今、自分の悲しみを良い意味で犠牲にしても、守りたい今があるから健康的な女性でいたいとひたすらに願っているし実行している。だから私は偉いし私は強い。このままメンヘラ閉鎖病棟の一時退院がうまくいって入退院を繰り返すことなく、うまく足を洗えますように。