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コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

しごおわ

通信制限がかかって何もできないし、持ち歩いてる本は面白くないから全然読んでない。いざという時に本を持ち歩かないくせに、どうでもいい時に重い荷物を背負ってる。

 

今日は仕事でバカな失敗をしてしまった。そのおかげで仕事が増えて、ヒーヒー言いながら業務を遂行した。丁寧にやってるつもりでも見落としがたくさんあって、反省ばかりじゃない次に繋げたい。

一緒に休憩をとった同期のお兄さんとお姉さんは相変わらず頭がおかしくて面白いな、平和だな、と北海道のお土産白い恋人を食べながら思っていたんだけど。

 

お金がないから今日は何も食べなかった。久しぶりに着たMA-1はいつも着てる黒いコートよりはるかに暖かい。ライナーがしっかりしてるから腰まですっぽり隠れなくても暖かい。

 

今週中には彼との二人暮らしが終わるんだな。やっぱり寂しいなって、日を増すごとに、抱きしめられて眠るたびに思う。一人暮らしは楽しみだけど、一週間は鎌倉から職場に通わなくてはいけないと思うと、涙が出そう。

帰ったら荷物をある程度まとめて荷造りしないといけないのに、帰ると何もしたくない。

 

今日も朝はいつもより10分多く寝た。最近朝が全く起きれないし「あー!」って気持ちを抑えながらシャワーを浴びてる。それでも支度が終わる頃には元気になって「行ってきます!」って元気な声を出して出かける。

 

たまには違うアウターでも着て気分転換しながら出かけないと、毎日がマンネリ化しちゃう。こういう時にオシャレとか化粧って日々に色を乗せてくれるんだな。

 

最近は毎日同じ化粧だし、肌はノータッチで出かける始末。

 

一人暮らしして余裕が出てきたら、お弁当作っていきたいし、ネイルもしたいし(爪折れるから)、土日も馬車馬の如く働いて借金全部返済したいな。

いろんな愛の形や人の価値観や、優しさがそこにあるんだろうな。それでも私は自分の足で生きていかなくちゃいけないのだよね。

でも、今日もらった言葉の中で「別に自分から辛い道へ進まなくてもいいんだよ。辛いことは必然的に訪れるんだから」という言葉の優しさに立って歩ける気がしなかった。それはとても、いい意味で。

 

いろんな人の言葉があって、でも真実を知っているのは私だけで。人の言葉を受け止めながら自分の進むべき道へひたすら進むしかない。私は自分の人生へのレールをひたすら壊れないように走り続けるだけなんだ。

 

物件の審査はかなり厳しくて、保証人になった父の経歴はなかなか凄まじいものだ。それは誰かを恨むべきものじゃないんだよ。だから。心身に受け止めて答えが出るまで待ち続けることしかできない。借金とカード会社のブラックリスト経歴と、所得税を払っていない保証人をつけて私は家を借りれるだろうか。保証人になるのは父親か母親でしかない。自分がどんなに頑張っていても、結局ぶち当たる壁はそこなんだ。

別にまともな父親が欲しかったとは言わない。彼は彼で一生懸命家族を支えてきた。どんなに迷惑を被っても、殴られても、泣かされても、それでも親なんだ。

 

友達言ってた。「もしも自分の親を許せなくて和解できないままだったら、きっと自分も子供に同じことを繰り返してしまう。親と和解して仲良くなって、理解してあげることっていうのは大人になるっていうことで」きっとそこで親を許してあげることで、自分に子供ができた時に同じことを繰り返さずにすむのだろう。

もしも、私に子供が出来たら自分の親にされてきた仕打ちと同じことを繰り返したくないと常々思う。それは、親を理解し和解して許すことで初めて心の中でほとぼりが冷めて。親への敬愛と共に心から自分の生み出した命を愛せるのだろうと思う。

 

今日過ごした時間はあまりにも優しすぎて、心地が良すぎた。それでも私は彼らの時間軸の中で生きているわけではなくて、自分のいま置かれている時間軸の中でもがきながら生きている。いろんな人にいろんな言葉をもらった。それは優しさなのか甘えなのか正しさなのか分からないし。その答えを決めるのは私自身なのだろうと思う。済んでから全ての答えが分かるのだろうか。あの頃のように、すべてのことが終わって初めて間違えていたことに気付くのだろうか?未来のことは誰にも分からない。もしも事前に気付くきっかけがあったとしても変わらずに進み続けるだろう。泣いているだろうか笑っているだろうか?

先のことは分からないけど、それでも今は後悔しないように生きていかなくちゃいけないから進むしかないから自分を奮い立たせるしかない。誰に間違っていると言われようとも自分が曲げられないものが一つあってもいいんじゃない?だから、負けない

 

抜け穴の探し方 心の赤ん坊

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みんなどうして悲しいことがあったとき、変わらずに動き続けられるんだろう?立派だね。全てを投げ出すことなく、何があっても生きるために生活水準を保つことできる強さ。すごい

 

ってずっと思ってた。いつも悲しいことや嫌なことがあると、全てを捨ててもう二度と立ち直れないほど自分を壊してしまう甘えがずっとあった。でも、やっとわかったことは、みんな苦しいから動き続けているんだろうなってこと。立ち止まる方がずっと悲しくて、ずっと耐えきれないから、面と向かって悲しみと正面衝突するんじゃなくて逃げ道をうまく使って生きているんだろうなって。自然と。

私にはずっと逃げる場所がなくて、今ある全てのものを投げ出すことしか知らなかった。不器用だから、抜け穴を全部塞いで、悲しみに閉じ込められているばっかり。悲しみが明けた頃には、何もなくて全て振り出しに戻る繰り返し。せっかく前に進めた事実さえも振りほどいてリセットしちゃう。

 

今は違うな。ちゃんと自分の逃げ道も、心の抜け穴もあるもの。どうして、みんなが変わらずに動き続けることができるのか?やっと少しだけわかった気がするんだ。だから、不安にならなくても大丈夫なんじゃないかな?

 

賢く生きることはすごく難しいし、まだそのスキルは全然備わってない。きっと周りの人に比べて、私の前進するスピードはとても遅い。だから置いてけぼりになっちゃうし、馬鹿にされたり、傷つけられる事もたくさんあるよ。

それでも自分のリズムを乱さないようにやって行こう。何事も積み重ねなんだ。投げ出したらそこで終わってしまう。何か一つでもいいから、自分のリズムを掴んで進めてみようかね。

 

馬鹿にされても、貶されても、傷つけられても、それはとても悲しい事だけど。生きてるって沢山そういうことがある。ひとつひとつの刺激に涙を流していたら心が持たなくなっちゃう。「繊細」とか「感受性が豊か」って時には邪魔になる時もある。きっと必要な時もあるのだろうけど。自分の持ってるものをまだうまく出し引き出来てないから、失敗を繰り返してるんだけどね。

だからもっと強くならないかな?っていつも考えてる。もしも悲しいことや、凹むことがあっても立ち止まるんじゃなくて「よしやってやろうぜ」っていう強さがもう少し欲しいなって思う。今のままじゃ、多分これから先何十年も長い人生の中でうまく綱渡りできないから。

 

強くなるにはどうしたらいいと思う?っていつも考えてるんだけど、なかなか上手くいかない。一人になるといろんなことを考えてしまいがちだよね。

でも、一つだけ良かったことがあって。いま私は確実に動き続けてること。動き続けるってこんなに気持ちよくて、何かを無我夢中でやり続けるってこんなに楽になれることなんだなって初めて実感した。立ち止まってると嫌なことや不安がどっと押し寄せてくるけど、少し我慢して動き続けるだけで、気持ちが楽になれる。

「あ、私は、私のために生きようとしてるぞ」っていう事実がそこにあると嬉しくなる。誰かのためじゃなくて、自分自身のために努力をすることって一番気持ちがいいかもしれないな。

もちろん誰かのために努力をする事も楽しいけど、自分のために頑張る行為ってすごい有意義なオナニーみたいで。少しだけ安心する。誰かのためって理由だけで動き続けてると一人になった時に途方に暮れちゃうから。

自分のために動き続けると、これから先誰かとの関わりで悲しいことがあっても、頑張ってきた貯金が心を救ってくれるんじゃないかなって思うんだけど。一番大事なことさ、それを「本当に悲しい時」に思い出せることなんだ。だから練習を沢山する。いつくるかわからない本番に向けていつでも特訓なくちゃ。

本番は唐突に、いきなりやってくるからいつでも本番の意気込みで、取り組んでやろう!って思うの。そうすれば少し日々の積み重ねで鍛えられていくんじゃない?それに、そうすることで自分自身がホッとできるのも事実だから。

 

 

悲しみの本番に向けて、日々鍛錬してる。どんなに悲しいことがあっても二度と投げ出してしまわないように。

「人は永遠に悲しみ続けることはできない」ってお父さんがむかし言ってた。

悲しみは悲しみできっと鬱陶しく思う感情ではないけど、それに全ての身を委ねる必要はないから。お友達になるくらいの距離感でうまく付き合っていけたらいいのに。

 

自分の心の弱さがとても恐ろしく感じる。やっぱりこんなことを言っても、何かを一つでも失ってしまった時、変わらずに下を向きながらでも歩けるかなってさ。その時になって見ないとわからないけど。

本当はいつも自分が怖い。誰かじゃなくて自分が一番怖い。救いのない闇のマントに身を包んじゃって二度と光を拝まないと意固地になっちゃうところが怖いよ。今はこんなに穏やかに考えられるのに。何か大きな衝撃が起こると何も考えられなくなって体が動かなくなる。そしてもう二度と立ち上がることはできないと思い詰めて、淡々と時の流れを無心でなぞっていく。

 

いろいろ考えられる頭があって、こうしたほうがいいっていうアイディアがあるのに。衝撃を緩和するスポンジが全然足りないからその時だて本当に死んでしまう。

 

私はメンヘラじゃないよって笑ってるけど。見栄とかじゃなくて、そう思いたい願望だったり自分を奮い立たせる材料だったり。

でもあいつはどこかで息を潜めて、顔を出すタイミングを見計らってるのを知ってる。小さくなって息をしてる。虫の息かもしれないし、優雅に眠っているかもしれない。

 

誰かは病気じゃないっていうし、誰かは病気だからしょうがないっていうでしょう。でもその誰かの言葉に惑わされて自分の首を絞めてばっかりだった。「じゃあ、なんて言ったら100人が100人納得してくれるんだ!」って。心の問題だから、誰かじゃなくて自分がちゃんと向き合ってあげなくちゃいけない。

 

どっちだっていいんだよ、そんなことは。悩んでることに間違いはないんだから。時には耳を塞いでもいい言葉もある。

 

 

もしも息の根を止めることができなくても、できるだけ長く、穏やかに眠っていてほしいと思う。私がずっと子守唄を歌っていてあげる。ちゃんと見守っていてあげるから、安心して眠ってほしいな。

 

あ、そうだな。きっと「赤ちゃん」なんだ。きちんとお世話をしてあげないとぐずる。でも言葉を知らないからどうして泣き叫んでいるのかわからない。でも、付き合っていくうちにどうして悲しいのかな?今何を欲してるのかな?って分かるようになってくる。それはきちんと向き合ってきた時間の結果なんだね。

 

だから、そこで眠ってる私の悲しみや不安や、名前の付けられないそれらときちんと向き合って守ってあげなくちゃいけない。いつか一人で立って歩けるように。大きくなって言葉を話せるようになって独り立ちする日が来る。それがいつだかわからないけど。いま向き合うことをおろそかにせずにいればきっと健やかに穏やかに育っていく。

 

そうだ。赤ちゃんみたいなものなんだ。きちんと私が心という赤ちゃんに栄養を与えて、向き合って、培っていく時間が大切なんだよね。

 

憎たらしくて、可愛い赤ちゃん。繊細で弱くて一人では生きていけない。私が手を差し伸べてあげればいい。

仲良くしてあげればいいんだよね。

 

今日も今日とて、仕事をそつなくこなして、定時に上がりクタクタの体を引きずって家路に帰る。電車の中では安西水丸の本を読みながら、通勤時間さえもいまは楽しめる心の余裕を持っていると思う。

最寄りの駅について、ふと財布の中を確認して落胆したり。家に帰宅してからはすぐに単発のバイトに登録したり。職場近くにあるジムを調べてみるも、ポスターに記載されていたリーズナブルな値段というのは、何を基準にリーズナブルだと言っているのかな?とその価格に失望したり。

やはり何事もお金は必要で、ご飯を食べるのも、定期を買うのも、タバコを吸うのも、全部お金が必要で。暮らすことも生きることも、息をしてるだけでお金は。

 

泣きたくなることも、もう嫌だって投げ出したくなることも、腐る程あるし、それでもいま自分が生きていく為には何が何でも動き続けなくちゃいけないから。日々の小さなことの中で幸福や楽しみを見つけて。自分の寄りかかる柱を増やしていかないと思う。

もしも、いま私が無職だったらきっとこんな風に思えなかったな。働くってすごいことだな。そんなことは至極当たり前なことだけど、今の私にとっては一つ一つの出来事が大切で新鮮で丁寧にとまではいかずも、少しずつ前に進んでる気がする。

 

 

自分の気持ちを察してもらえなかったり、打ち明けたり、それでも伝わらない想いが消えていくことも、そんなこともいつかどうでもいいと思える日が来るのかな?

自分自身がいまこうして立っている場所も、歩こうと必死になっていることも、きっと本質なんてものは誰にも伝わらないのは全然わかってるから、ちゃんと他人に期待しないように自分が自分自信を受け止めてあげればいい。人のことなんて、他人にはわかるはずがないし、他人が見ている自分自身も少なからず事実だから。そこで逃げようとしたり自分の殻に閉じこもるんじゃなくて、もう少し誰かの言葉に耳を傾けてみるのも大人への一歩なのかもね。

昔は誰の言葉も耳を塞いで生きてきた。自分を否定する言葉や、耳が痛い話は全部知らないふりをするか、自らをどん底に突き落としてボロボロになることでしか自分の意思を相手に伝えることしかできなかったと思う。

今だって、人に自分の気持ちを伝えるのはすごく難しい、まだまだ子供だから思わず意固地になって、口から出る言葉は天邪鬼なことばかり言ってしまう。それが正しいとか正しくないとかでもなくて。納得がいかないことでも「そうだな」って自分に嘘をつくことで気持ちが楽になれることもあるんだって最近初めて気づいたんだよね。

私は、あまりにも自分自身に素直になりすぎてた。時には自分についた嘘が本質に変わっていくこともあるし、そうすることで人生は少し好転していたかもしれない。あくまでたらればの話でしかないね。

 

 

 

生きていくって難しいことばかりだ。私は頭がそんなに良くないから、賢い方ではないから、後先考えずに今自分ができることにぶつかっていくことしかできなかった。もう子供じゃないんだから、もう少し自分のために本当に大切なことを考えなくちゃいけないのに頭の中身は煩悩ばかり。もしもの保険なんて、自分の心が壊れないようにするためのものでしかない。だから何か起こった時に「生きる」ことが困難になりがちなんだ。自分の身を存在を守る保険じゃなくて、曖昧で不安定な心の保険ばかりかけて生きているからしわ寄せが全て自分に覆いかぶさって来るんだ。

 

我慢できなくて、衝動で口にした想いや言葉も、振り返ってみると本当はもう少し大切に出来たんじゃないの?って後悔することが24歳になってから増えた。私は大人になるにつれて、弱いってどんな痛みなのか少しずつ実感していく気がするんだよね。

溜め込んだ言葉や感情の引き出しはぶっ壊れてて、ふとした衝撃で自分の意図せぬ場所で開いたりするから、そういうところもっと賢くなりたいな。きっと感情や言葉の引き出しは、溜め込みすぎてもう入りきらなくて。それでもいつだって無理やり無造作にしまい込まれて行き場を失ってる。

整理整頓して、古い感情は早く捨てないと。感情の断捨離をしないといつか爆発しちゃうでしょう。それでも何処に捨てていいのかわからなくて、荷物は増えて。しまうところがなくなった感情は無造作に床へと散りばめられてく。手にとってぽいって具合に適当な誰かへと投げてみたらビリビリに破かれて報われることなく捨てられたり。そんなことを繰り返していたら、本当に必要な時にその感情が見つからなくなって消えてしまったりするんだもの。本当は自分の気持ちを無下にしてるのは、自分自身なのかなあ?

 

 

わたしは、わたしの生きたいように生きているかな。わたしが生きたいように生きていくためには、それなりに努力をしなくちゃいけないと思うし。我慢することもたくさんあるんだけど譲れない何かも一人の人間として一応備わってるつもりなんだ。

もしも、もしもだよ、その譲れない何かと相反するものがすごく大切なものだったとししたら飲み込まれるのか飲み込むのか失うのか。きっと選択肢はその三つしかないのかもしれないと思うんだよね。飲み込みたくても飲み込むことができないものって世の中にはたくさんあって、飲み込まれたいと願っても飲み込まれることができないときだって必ずしもひとつやふたつこの世には存在してるでしょう。そういう時に私は自分の手元になにを残すんだろう?今までは全部捨ててきた。持ってるもの全てを投げて何も残らないようにしてた。もうそんなことは通用しないんだよ?

じゃあ、今の私は自分に何が残せるのかな。

 

例えば何かしらの衝撃で何かを失ってしまうことになっても、私はもう全てを投げ出すことは絶対にしたくない。そんなことをしても全然幸せになれなかったし、全然気持ちは報われなかったことを知ってるから。同じ失敗を繰り返すほど愚かな人にもなりたくないし、そこまで衝動的に人生を生きていたくもないって本音でしょ。

そんなの病気とか全然関係なくて、もしも病気だったとしても、これからの一回の成功であっという間に治ってしまうかもしれないでしょう?

 

賢く生きたいな。負けたくないな。でも、今自分が抱いてる気持ちも無下にしたくないし大切にしたいと思う。間違ってるなんて誰にも言わせないために自分が正しいと思った道を貫き通すしかないんだよ。バカにされてもけなされても、認めてあげることのできる一番の味方は私だよ。他の誰かじゃなくて私自身なんだってことを。

 

一方通行でもいい。意見が食い違ってもいい。片思いでも、伝わらなくても、なんでもいいから今の気持ちを自分が否定しちゃいけない。嘘をつくことと否定をすることは全然違うのだから。

 

 

 

わかってるよ。他人の人生を生きる必要はないんだよ。自分から不幸に突き進んでいくのも嫌だ。寂しさや愛しさだけで掴み取ったそれを大事に握りしめて、知らないうちに自分が死んでいくのはもう絶対に嫌だ。

涙の話をもう少しだけしてみようと思う。

 

 

悲しむべきところで私はずっと泣けなかった。きっとこの状況で泣いたら、この時間は変化を加えられると思い泣くことが多々あったんだ。そう、それはまるでほしよりこの作品に出てくる「逢沢りく」という作品に登場する彼女のように。

彼女は嘘の涙を流すことができる。悲しみの意味も知らずにー

 

books.bunshun.jp

 

きっとあの頃の私はこの作中の主人公のように、いつだって涙を用意していた気がするし、本当の悲しみを知らなかったと思う。

あの時本当の悲しみを失ってしまってから、心のなかに空っぽの隙間が生まれて、涙を流すという行為は本当の悲しみからくる反動ではなくて自分の心が壊れてしまわないようにする防衛でしかなかった。

涙を流すことはたやすくて、自分の納得のいかないことがあると壊れてしまわないように声を枯らしてよく泣いていた。これ以上なにも考えてしまわないように、全ての邪念を身体から放出するように泣き続けていた気がする。

それはまるで、赤ん坊が自分の意思を誰かに訴えかけるための手段として泣き叫ぶように、大人になった私は自分の意思伝達を涙で片付けようとしていたのかもしれない。本当の悲しみをどこかに置き去りにしてしまったかのように。

 

 

そんなことを繰り返していた私は本当に悲しい時に涙を流せなくなってしまった。本当に大事な時に涙を流せなくなってしまった。本当は悲しくて、涙を流してしまわないと自分が壊れてしまいそうなのに、涙を流すより先に自分自身を壊すことに徹することししかできなかった。自分自身だけではない、きっと多くの人を傷つけて悲しませて、涙を流す代わりにいろんなものへの破壊衝動に駆られた。

いつの間にか涙のタンクは空っぽになってしまって、泣き方を忘れてしまった時期があった。

 

 

 

最近になって、心のゆとりを取り戻してきたのか、よく泣くようになった。人生初めての嬉し涙を流すことへの幸福感を抱いた。お父さんが言っていた「嬉しい涙はいくらでも流していいんだよ」という優しいセリフを思い出して。

こんなにも涙のことを考えている私は泣きたくて仕方がないのかもしれない。

 

 

ある夜に流した涙。全てを失ってしまう恐れと、もう二度と戻ってこないものへの悔やむ気持ちを布団の中で泣き続けた。あの時流した涙は特別だったよ。私は大切なものを二度失ってしまっている。あまりにも残酷なその過去への悲しみは硬く封じ込められてしまって、建前の用意された悲しみでしか弔うことができなかったのに。

ある夜、本当に大切だと思う人に力強く抱かれたその時に、涙が溢れて、どうしようもなくなってしまったことがある。もう二度と取り戻すことのできないものを初めて悲しみのゆりかごの中で安らかに寝かしつけることができたかもしれない。

 

今言葉にしないと忘れてしまう感情をこうして、公然の前に晒すことによって自分の気持ちごと弔われるような気がする。

 

 

なんか疲れちゃった。

 

 

ハイライト

慣れない仕事は毎日覚えることがたくさんあって、疲れるような気もするし、勉強することがたくさんあるから楽しい気もする。

職場ではWindowsを触って帰宅してからはmacを触っているので、頭が混乱しそうになる。キーボードの変換の文字列がたまに分からなくなったり使いづらいなと思いながら嫌いなタイプのキーボードでタイプをしいる毎日。

 

 

仕事

今日任された仕事はライターさんにお仕事を振るために記事構成を考える仕事。何時間も練って考えた記事構成は勤務時間終了間近にすべてやり直しと突き返されてしまったがために思わず苦笑いが漏れて。少し嫌な顔をしながら「具体的にどう直せばいいですか?」と余裕のなさを露呈してしまった。

仕事を教えてくれる上司は丁寧に、一生懸命わかりやすく伝わるような日本語を用いてゆっくり教えてくれる。新人が増えた職場で仕事のノウハウを教えなければいけない彼女は自分の仕事もまとも消化できず、いろんなことを任されていっぱいいっぱいなのにそれでも右も左もわからない私に丁寧に教えてくれる。

丁寧な仕事を心がける不器用な彼女は、私の作成した仕事をひとつひとつ丁寧に添削して直す箇所を説明してくれる。

帰り道、たまたま一緒になった彼女と少し話をしながら帰った。「いつも教え方わかりづらくてごめんね」と謝る彼女は仕事の愚痴をこぼしながら私の隣を歩く。

入社したばかりの会社では、どこか職場の人と距離が掴めぬまま談笑をすることなく黙々と自分の仕事を消化していく毎日の中で。はじめて彼女の素の部分を観れたような気がして、自分の仕事のやるせなさや疲れが一気に吹っ飛んだような気がした。

彼女なりに一生懸命いま任されていることを消化しながら、懸命に私に業務の指導をしてくれる彼女は不器用だけど生真面目で突き進んでいこうという姿勢だけは痛いほど感じて私も見習わなくてはと実感させられたかもしれない。

帰りの電車の中で、コンビニで買ったカレーパンを握りしめながら明日も頑張ろうと自分を奮い立たせて。心地のいいバスの揺れに身を委ねて浅い眠りについた。

 

 

 

 

 

猫と死

最近の日課といえば、猫が死んだ人のツイッターをひたすら眺めていることくらいかもしれない。彼女の猫は日を増すごとにやつれていき、数日前に息を引き取った。「ずっと可愛かったね」という彼女の垂れ流す言葉を何度も見返しては鼻がツンとして涙がこみ上げてくる。最後の埋葬。かすみ草に囲まれた彼女の猫は眠るような穏やかな顔をしていた。置いて痩せこけ、小さくなった猫はどこか頼りなくて。それでも、その表情はまたいつものように目を覚ましてくれるのではないかと思わせるような素ぶりで。私は彼女の猫を一度も目の前で見たことはないけれど。

「骨になっても愛おしい」という猫に対する愛情や、大切なものの死を受け入れようとする反面、反抗する言葉の羅列はあまりにも尊くて。赤の他人の私が何故か感情移入をしてやるせない気持ちに浸ったり。

 

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いつか自分の猫も死んでしまうのだろうと考える。もうすぐ10歳を迎える彼はどこにでもいる雑種のキジトラ。15歳の頃、親の許可も得ずに友人から引き取った猫だ。16を迎えた冬に実家を出てからというもの彼との間に少しだけ溝が生まれて、武会社とみなされた私は血まみれになるまで引っ掻かれたこともある。今は年老いて大人しくなってしまった彼は、久しぶりに帰る私を快く迎え入れてくれるんだ。もう、昔のような活気は失われてしまって、何かを悟ったような顔をして気まぐれに寄り添ってくれる。どこか鬱陶しい気もするし愛情で満ち溢れている気持ちもきちんと用意されていて。お互いに身勝手な私たちは仲良くやっていると思う。

きっと彼もいつか死ぬだろう。私は彼の死に目に会えるだろうか。彼が死んだら、私も大切なものの死を受け入れなくてはならない。克服できるだろうか?大切なものへの死をきちんと弔う気持ちで居られるだろうかと不安になる時がよくあった。

 

まだ本当に、身近な大切なものを失ったことがない私は死というお別れの受け止め方をよく知らない。

10代の頃、親族が立て続けに亡くなったその時、お葬式では一雫たりとも涙を流さなかった思い出がある。若くして亡くなった親しい叔父を見送る親族たちは泣き崩れては、伝染していくように他人の涙が人々へと浸透していった。

ただ、なんとなくその時考えたことと言えば「一人くらい涙を流さずに見送ってやろう」という気持ちでいた。それが本当の理由なのか、化粧が崩れてしまうことを回避したいがための都合のいい動機付けだったかどうかは分からない。

それからというもの、私は本当に誰かの死に目に涙を流せるのか?と不安に思った。くだらないことではよく泣いていたのに、本当に大切な場面では涙を流せない人になってしまったらどうしようとしばらく悩んだ。

 

今の私は、大切な人への死を涙で見送ることができるだろうか?決して泣いて見送ることだけが正解ではないけれど、反動で巻き起こる感情に負けて涙を流せるだろうか。

 

老人ホームで過ごす祖母のご老体を感じたあの日の帰り道、そして冷たい布団で眠る夜は声が枯れるくらいに泣いた。まだ祖母はこの世に生きているけれど、もう死が近づいているという恐怖に感情の反動に負けて涙が出た。

もしも本当に祖母が息を引き取ったその時、私はあの夜のように声を枯らして泣けるだろうか。自分の力で、奮い立った感情を涙という表現方法でぶつけられるだろうか?とふと考えてみることがある。それは猫の死も同じように。

 

 

 

どんなに考えても、どんな言葉を用意しても、どんな憶測を立てても未来のことは分からない。私は涙を流せないかもしれないし、もしかしたら声が枯れるまで泣いてしまうかもしれないとも思う。どちらにせよ、私が今あるものを100の気持ちで愛していることは真実で、これからもこの気持ちを忘れないように今ある時間を大切に生きて行こうと思う。曖昧でありきたりな言葉しか出てこないけれど、私は今を愛してる。

 

 

 

自己の中の柱

今のわたしは八割がプライベートに重きが向けられていて、些細な物事のもつれを許容できる代わりになるものがない。

もし仕事を始めたら、私は仕事のことを考えるだろう。きっとたくさん勉強をするだろう。仕事に重きを向けれることができれば、人生は楽になるだろうか。いまの私は「彼氏がいなくては死んでしまう」状態で完全に悪循環になっている。誰かを思う事や好きになることは悪い事ではないけれで、そればかりに気持ちが蝕まれてしまうことはあまりいい傾向とは言えない。きっとこのままでは自分自身が疲れて死んでしまう。

仕事を始めたら、仕事のことを考える時間が増えるだろう。そうすることで、少しずつプライベートな時間からいい意味で解放されて、いい刺激になるかもしれない。仕事という逃げ道が私には欲しいのかもしれない。それが全てではないけれで、多少そういう気持ちは含まれていると思う。

私が考えていることはいつもプライベートのことばかり。狭い世界の中で私は一喜一憂しながら生きている。このままでは息苦しくて、いつか窒息死してしまう。そのためにも私は新しい世界へと足を踏み出さなくてはいけない。

夢中になれるものがあれば、きっと気持ちも少しは楽になるだろう。些細な感情のもつれも許容できるだろう。仕事とい自分のもう一つの逃げ道を必要としているのかもしれない。他者という曖昧な存在に自分の芽を植え付けるよりも、まずは自分自身の柱になるものをしっかりと用意しないと他人恋愛なんてできないだろう。

私は自分の中の柱が存在しないばかりに、他者という不確定な生き物を柱にして寄りかかって生きてる節があった。その柱がなくなってしまえば、私は途方に暮れて行き場を失い「死」という逃げ道へと歩いていくばかりで。

本当に大切なことは、自分自身の柱を他者ではなく自分の中で作ることが大事だったのだろうと思う。私はあまりにもおぼつかない足取りで他者と向き合っていた。仕事という大きな柱を軸に自ら地に足つけて立てるようになれば、プライベートで問題が起こったとしてもしても自分の柱に寄りかかればいいのだ。

私は、いままであまりにも不確定なものばかりを自分の中で柱にしすぎた。だからこそ、些細なことが大きな問題に繋がってしまうのだ。私の人生の成り立ちは好きな人との暮らしだけで出来上がっているわけではない。きっと他にも大切なものが多くある。

恋は盲目とでもいうべきだろうか。あまりにも、視野が狭すぎて向き合うべき大切なものさえも疎かにしていた気がする。愚かだ。

もちろん好きな人は好きで愛しているけど、人生の成り立ちはそれだけで出来ているわけではないことをいつの間にか忘れてしまうことがよくある。

年をとるごとに、自分の中で誇れるものが少しずつ失われ、その不安を埋めるべく他者を利用して寄り添うことで現実逃避することが多々あった。寂しいと好きという感情は全く別物なのだ。いろんなものを履き違えていた。哀れだなほんとうに。

 

自分の気持ちを他者に委ねて生きすぎたかもしれない。これからはもう少し自分の気持ちと素直に向き合って、地に足つけて立てるように自分の中の新しい柱を立てよう。他者に気持ちの全てを委ねることではなくて、自分自身の柱をしっかりと支えながら寄り添って生きていくことが理想的なのだと思う。