コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

想像力に欠けるという、暴力

生きてると無作為に人の攻撃を受けたり、差別されたりする。もちろん自分も同様に、誰かを無意味に線引きして、思考の節約をしているだろう。

 

誰しも日々の生活において、すれ違う人々のストーリーなんて目を溜めない。外観だけの情報で、その人がどんな人間なのか判断する。何も感じなければそれまでだし、何かを思うにつれても深い意味なんて存在しない。目まぐるしい生活の中で、他人のシナリオに目を向けている時間はないんだから。

 

だからこそ、無作為に「偏見」と呼ばれても仕方ないことが起こるのかもしれない。それが本当に正しい表現なのか、わたし自身だって100の自信を持っては言い切れないけど。

 

みんなどこかで思考の節約をしているし、それはオッカムの剃刀のように、何かを端的に説明させるための術ではない。目を向ける物事への価値観の違いとも言えるけど、ただ考えることを節約してるだけのように見える。

 

青森県といったら?」

「りんご」

そんなやり取りを何食わぬ顔で答えるように、それぞれの価値観で思考を節約してる。限られた情報の中で、想像略を働かせることを失った人々は、残酷な表現で他人にレッテルを貼る。

 

わたし自身それを嫌という程感じながらも、どこかで他人にステレオタイプを押し付けていた部分もあった。想像略に欠けることで、とても愚かな言動が目立つ部分もある。

 

わたしが結婚した男性は、土木関係の仕事をしている。彼が仕事中、道行く男性に「汚い」というような言葉を吐かれたという。その話を聞いた時、とても心が苦しくなった。大切なものが他人に揶揄されている痛みと同時に、自分自身もこれまでそう言った偏見は0だと言い切れない事実に。

どんな仕事も立派であると、その話を聞いて幾分か経ってから考えた。

もちろん彼がわたしにとって特別な人間だから、という動機がゼロではない。ただ、この意見のに対する3割程度の意味合いには、職業で誰かを判断するべきではないという正義感もある。綺麗事だと言われてしまえば、そこで口ごもってしまうのも然り。

 

こういった経緯に基づいて、わたしは他人の無作為なステレオタイプに頭を抱えた。

思考を巡らせるも、結果に至るアンサーは要約すると「仕方がない」で済まされる話でもあるだろうな。しかし話は前後するにせよ、それは本当に想像力の欠片ける悲しい現実であることがわかった。

 

冒頭の話に戻ろう。

人々は常に、目まぐるしい社会の縮図に目を向けて生きている。街を歩く他人に対しての認知は、想像力を働かせることなく判断するのも間違ったことではないだろう。

 

結果、反面教師という言葉で何もかもを要約する気は無いけれど、自分はなるべくもっと想像を働かせて誰かを認知しようと思う。

 

・差別

・偏見

・イメージ

ステレオタイプ

 

これらが生まれる状況によって、その良し悪しも変わる。ただそれが必要である状況かどうか?くらいは判断できるよ。

また話を戻すけど、オッカムの剃刀でいうのうに何かを端的に説明するなど、必要な状況であれば武器になる思考節約だ。

ただそれを手当たり次第翳してしまうと、傷つく必要のない人が現れることもある。そんなものはあまりにも悲しいから、上記の言動において「然るべき時に利用するべきだ」という意思を強く持ちたい。

 

エッチしてお金をもらう人

コンビニでバイトしながら生計を立てる人

株やFXでぼろ儲けする人

スーツを着て会社に行き対価を得る人

工事現場で道路の補正をする人

 

経緯の裏側をこと細かく理解することは難しくても、わからないという状態で否定から入るのは悲しいことだよ。だから物事なんでもそうだけど、自分なりの解釈でもいいから、まずは知ることが大切だ。その上で、やっと主張できる権限をもらえる。想像力に欠ける人は、無知に等しいんだ。