コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

いろんな愛の形や人の価値観や、優しさがそこにあるんだろうな。それでも私は自分の足で生きていかなくちゃいけないのだよね。

でも、今日もらった言葉の中で「別に自分から辛い道へ進まなくてもいいんだよ。辛いことは必然的に訪れるんだから」という言葉の優しさに立って歩ける気がしなかった。それはとても、いい意味で。

 

いろんな人の言葉があって、でも真実を知っているのは私だけで。人の言葉を受け止めながら自分の進むべき道へひたすら進むしかない。私は自分の人生へのレールをひたすら壊れないように走り続けるだけなんだ。

 

物件の審査はかなり厳しくて、保証人になった父の経歴はなかなか凄まじいものだ。それは誰かを恨むべきものじゃないんだよ。だから。心身に受け止めて答えが出るまで待ち続けることしかできない。借金とカード会社のブラックリスト経歴と、所得税を払っていない保証人をつけて私は家を借りれるだろうか。保証人になるのは父親か母親でしかない。自分がどんなに頑張っていても、結局ぶち当たる壁はそこなんだ。

別にまともな父親が欲しかったとは言わない。彼は彼で一生懸命家族を支えてきた。どんなに迷惑を被っても、殴られても、泣かされても、それでも親なんだ。

 

友達言ってた。「もしも自分の親を許せなくて和解できないままだったら、きっと自分も子供に同じことを繰り返してしまう。親と和解して仲良くなって、理解してあげることっていうのは大人になるっていうことで」きっとそこで親を許してあげることで、自分に子供ができた時に同じことを繰り返さずにすむのだろう。

もしも、私に子供が出来たら自分の親にされてきた仕打ちと同じことを繰り返したくないと常々思う。それは、親を理解し和解して許すことで初めて心の中でほとぼりが冷めて。親への敬愛と共に心から自分の生み出した命を愛せるのだろうと思う。

 

今日過ごした時間はあまりにも優しすぎて、心地が良すぎた。それでも私は彼らの時間軸の中で生きているわけではなくて、自分のいま置かれている時間軸の中でもがきながら生きている。いろんな人にいろんな言葉をもらった。それは優しさなのか甘えなのか正しさなのか分からないし。その答えを決めるのは私自身なのだろうと思う。済んでから全ての答えが分かるのだろうか。あの頃のように、すべてのことが終わって初めて間違えていたことに気付くのだろうか?未来のことは誰にも分からない。もしも事前に気付くきっかけがあったとしても変わらずに進み続けるだろう。泣いているだろうか笑っているだろうか?

先のことは分からないけど、それでも今は後悔しないように生きていかなくちゃいけないから進むしかないから自分を奮い立たせるしかない。誰に間違っていると言われようとも自分が曲げられないものが一つあってもいいんじゃない?だから、負けない