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涙の話をもう少しだけしてみようと思う。
悲しむべきところで私はずっと泣けなかった。きっとこの状況で泣いたら、この時間は変化を加えられると思い泣くことが多々あったんだ。そう、それはまるでほしよりこの作品に出てくる「逢沢りく」という作品に登場する彼女のように。
彼女は嘘の涙を流すことができる。悲しみの意味も知らずにー
きっとあの頃の私はこの作中の主人公のように、いつだって涙を用意していた気がするし、本当の悲しみを知らなかったと思う。
あの時本当の悲しみを失ってしまってから、心のなかに空っぽの隙間が生まれて、涙を流すという行為は本当の悲しみからくる反動ではなくて自分の心が壊れてしまわないようにする防衛でしかなかった。
涙を流すことはたやすくて、自分の納得のいかないことがあると壊れてしまわないように声を枯らしてよく泣いていた。これ以上なにも考えてしまわないように、全ての邪念を身体から放出するように泣き続けていた気がする。
それはまるで、赤ん坊が自分の意思を誰かに訴えかけるための手段として泣き叫ぶように、大人になった私は自分の意思伝達を涙で片付けようとしていたのかもしれない。本当の悲しみをどこかに置き去りにしてしまったかのように。
そんなことを繰り返していた私は本当に悲しい時に涙を流せなくなってしまった。本当に大事な時に涙を流せなくなってしまった。本当は悲しくて、涙を流してしまわないと自分が壊れてしまいそうなのに、涙を流すより先に自分自身を壊すことに徹することししかできなかった。自分自身だけではない、きっと多くの人を傷つけて悲しませて、涙を流す代わりにいろんなものへの破壊衝動に駆られた。
いつの間にか涙のタンクは空っぽになってしまって、泣き方を忘れてしまった時期があった。
最近になって、心のゆとりを取り戻してきたのか、よく泣くようになった。人生初めての嬉し涙を流すことへの幸福感を抱いた。お父さんが言っていた「嬉しい涙はいくらでも流していいんだよ」という優しいセリフを思い出して。
こんなにも涙のことを考えている私は泣きたくて仕方がないのかもしれない。
ある夜に流した涙。全てを失ってしまう恐れと、もう二度と戻ってこないものへの悔やむ気持ちを布団の中で泣き続けた。あの時流した涙は特別だったよ。私は大切なものを二度失ってしまっている。あまりにも残酷なその過去への悲しみは硬く封じ込められてしまって、建前の用意された悲しみでしか弔うことができなかったのに。
ある夜、本当に大切だと思う人に力強く抱かれたその時に、涙が溢れて、どうしようもなくなってしまったことがある。もう二度と取り戻すことのできないものを初めて悲しみのゆりかごの中で安らかに寝かしつけることができたかもしれない。
今言葉にしないと忘れてしまう感情をこうして、公然の前に晒すことによって自分の気持ちごと弔われるような気がする。
なんか疲れちゃった。