コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

ハイライト

慣れない仕事は毎日覚えることがたくさんあって、疲れるような気もするし、勉強することがたくさんあるから楽しい気もする。

職場ではWindowsを触って帰宅してからはmacを触っているので、頭が混乱しそうになる。キーボードの変換の文字列がたまに分からなくなったり使いづらいなと思いながら嫌いなタイプのキーボードでタイプをしいる毎日。

 

 

仕事

今日任された仕事はライターさんにお仕事を振るために記事構成を考える仕事。何時間も練って考えた記事構成は勤務時間終了間近にすべてやり直しと突き返されてしまったがために思わず苦笑いが漏れて。少し嫌な顔をしながら「具体的にどう直せばいいですか?」と余裕のなさを露呈してしまった。

仕事を教えてくれる上司は丁寧に、一生懸命わかりやすく伝わるような日本語を用いてゆっくり教えてくれる。新人が増えた職場で仕事のノウハウを教えなければいけない彼女は自分の仕事もまとも消化できず、いろんなことを任されていっぱいいっぱいなのにそれでも右も左もわからない私に丁寧に教えてくれる。

丁寧な仕事を心がける不器用な彼女は、私の作成した仕事をひとつひとつ丁寧に添削して直す箇所を説明してくれる。

帰り道、たまたま一緒になった彼女と少し話をしながら帰った。「いつも教え方わかりづらくてごめんね」と謝る彼女は仕事の愚痴をこぼしながら私の隣を歩く。

入社したばかりの会社では、どこか職場の人と距離が掴めぬまま談笑をすることなく黙々と自分の仕事を消化していく毎日の中で。はじめて彼女の素の部分を観れたような気がして、自分の仕事のやるせなさや疲れが一気に吹っ飛んだような気がした。

彼女なりに一生懸命いま任されていることを消化しながら、懸命に私に業務の指導をしてくれる彼女は不器用だけど生真面目で突き進んでいこうという姿勢だけは痛いほど感じて私も見習わなくてはと実感させられたかもしれない。

帰りの電車の中で、コンビニで買ったカレーパンを握りしめながら明日も頑張ろうと自分を奮い立たせて。心地のいいバスの揺れに身を委ねて浅い眠りについた。

 

 

 

 

 

猫と死

最近の日課といえば、猫が死んだ人のツイッターをひたすら眺めていることくらいかもしれない。彼女の猫は日を増すごとにやつれていき、数日前に息を引き取った。「ずっと可愛かったね」という彼女の垂れ流す言葉を何度も見返しては鼻がツンとして涙がこみ上げてくる。最後の埋葬。かすみ草に囲まれた彼女の猫は眠るような穏やかな顔をしていた。置いて痩せこけ、小さくなった猫はどこか頼りなくて。それでも、その表情はまたいつものように目を覚ましてくれるのではないかと思わせるような素ぶりで。私は彼女の猫を一度も目の前で見たことはないけれど。

「骨になっても愛おしい」という猫に対する愛情や、大切なものの死を受け入れようとする反面、反抗する言葉の羅列はあまりにも尊くて。赤の他人の私が何故か感情移入をしてやるせない気持ちに浸ったり。

 

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いつか自分の猫も死んでしまうのだろうと考える。もうすぐ10歳を迎える彼はどこにでもいる雑種のキジトラ。15歳の頃、親の許可も得ずに友人から引き取った猫だ。16を迎えた冬に実家を出てからというもの彼との間に少しだけ溝が生まれて、武会社とみなされた私は血まみれになるまで引っ掻かれたこともある。今は年老いて大人しくなってしまった彼は、久しぶりに帰る私を快く迎え入れてくれるんだ。もう、昔のような活気は失われてしまって、何かを悟ったような顔をして気まぐれに寄り添ってくれる。どこか鬱陶しい気もするし愛情で満ち溢れている気持ちもきちんと用意されていて。お互いに身勝手な私たちは仲良くやっていると思う。

きっと彼もいつか死ぬだろう。私は彼の死に目に会えるだろうか。彼が死んだら、私も大切なものの死を受け入れなくてはならない。克服できるだろうか?大切なものへの死をきちんと弔う気持ちで居られるだろうかと不安になる時がよくあった。

 

まだ本当に、身近な大切なものを失ったことがない私は死というお別れの受け止め方をよく知らない。

10代の頃、親族が立て続けに亡くなったその時、お葬式では一雫たりとも涙を流さなかった思い出がある。若くして亡くなった親しい叔父を見送る親族たちは泣き崩れては、伝染していくように他人の涙が人々へと浸透していった。

ただ、なんとなくその時考えたことと言えば「一人くらい涙を流さずに見送ってやろう」という気持ちでいた。それが本当の理由なのか、化粧が崩れてしまうことを回避したいがための都合のいい動機付けだったかどうかは分からない。

それからというもの、私は本当に誰かの死に目に涙を流せるのか?と不安に思った。くだらないことではよく泣いていたのに、本当に大切な場面では涙を流せない人になってしまったらどうしようとしばらく悩んだ。

 

今の私は、大切な人への死を涙で見送ることができるだろうか?決して泣いて見送ることだけが正解ではないけれど、反動で巻き起こる感情に負けて涙を流せるだろうか。

 

老人ホームで過ごす祖母のご老体を感じたあの日の帰り道、そして冷たい布団で眠る夜は声が枯れるくらいに泣いた。まだ祖母はこの世に生きているけれど、もう死が近づいているという恐怖に感情の反動に負けて涙が出た。

もしも本当に祖母が息を引き取ったその時、私はあの夜のように声を枯らして泣けるだろうか。自分の力で、奮い立った感情を涙という表現方法でぶつけられるだろうか?とふと考えてみることがある。それは猫の死も同じように。

 

 

 

どんなに考えても、どんな言葉を用意しても、どんな憶測を立てても未来のことは分からない。私は涙を流せないかもしれないし、もしかしたら声が枯れるまで泣いてしまうかもしれないとも思う。どちらにせよ、私が今あるものを100の気持ちで愛していることは真実で、これからもこの気持ちを忘れないように今ある時間を大切に生きて行こうと思う。曖昧でありきたりな言葉しか出てこないけれど、私は今を愛してる。