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コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

リストカット

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夏の終わり

 

最近は天気があまりよくなく、雨の日々が続いているようで。このまま夏が終わってしまうかと思うと、少し心残りを残しながら新たな季節への導きに少しだけワクワクしています。

 

 

 

 

職場での話。

 

同じ痛みを抱えた女性の多い職場では、時たま私の腕の話になり、いろんな人々が私の腕を見て怪訝な顔を浮かべたり、悲しみの症状にうちひしがれたりと。様々な個人の情景がそこにはあって。

ものすごい形相で私の腕を眺める女の子もいれば、悲しみの表情で心配そうに私の心の加減を伺う女の子もいるもので。

 

 

仕事を初めてから、はじめて社会の中で多くの人々に私の腕が目に晒される場に出会った。今まではネットを経由して晒されることの多かったこの腕が、社会というなんのフィルターもかけられない直球の世界で多くの個人の心に深く刻まれていく。

 

改めて、公の場で晒されることで私のリストカットに対する味方や、他者から受ける評価の受け取り方は少しだけ変化していったかもしれない。

いままでは他者の痛ましい目というものをあまり意識して生きてはいなかったけれど、改めて今回初めての職種についていろいろと新鮮味のある経験をさせてもらっている。

 

今までは、他者の心配の目というものは「心配は誰でもできる」という言葉を友達から借りるのであれば、その言葉を履き違えて振りかざしてきたと思う。わたしは他者に心配してもらいたくてリストカットをしているのではないとい精神を頑にどこかで持ちながらも自己の結果をインターネットで発信しながら、その反応を取捨選択できる世界で温く生きていた。

 

なぜ仕事を始めるとリストカットをしなくなるのか、もしくは恋人ができるとリストカットの頻度ができるのか。今までの傾向をみて考えてみると、それは公の場の晒される他者のリアクションはダイレクトなもので自己の判断では取捨選択が不可能になり、自傷行為というグロテスクな行為の頻度が少しずつ収まっていくのではないかと考えた。

逆を言えば、インターネットの世界はそれを自己の世界の中で判断出来てしまう社会なので、社会から離脱した私は自由奔放にそれらを解放していってしまうような。

 

ではなぜ、根本的に私はリストカットをしてしまうのか。しばらく昔に自己の中に提唱した「マイナスの変化」というそのもの自体は何のストレスもな惰性のストレスの中で、心の蟠りを感じながら日々の中に目に見える変化を起こそうとしている。その変化を求める根源として惰性の日々が大きなキーポイントになっている。

惰性の日々というものは社会の中に放り出される衝撃というものが生じない。それはまるで、一人一人の人間がミキサーの中にぶち込まれるような衝撃に近い。緩やか社会というミキサーの中に詰め込まれてかき回されてストレスを感じていく。

私の言う惰性の日々とは、社会から離脱して狭い部屋の中に詰め込まれ、なんの衝撃もなく自己世界の中で物事を気持ちよく取捨選択して生きていくこと。それが段々と惰性として色を変えていく。その中で少しずつ育まれた蟠りを消化するために、目に見える大きな変化というものを求めているのではないかと考えた。

決してプラスへとは向かないその変化は、上がる事は難しいけれど落ちることは簡単であるという、実にシンプルな理論なのではないかと考えるている。上向きに努力することさえも億劫な状態だからこそ、剃刀一本で自己の判断の中で手に入れらてしまうその変化は惰性の生活の中にも色が出る。

だからこそ、取捨選択できない世界もふくめて、社会に飛び出したり、恋人ができることによってリストカットの頻度が減る理由のひとつとしては、いい意味でも悪い意味でもいろんな摩擦がそこに生じて自傷行為という変化を求める必要性に欠けてくるのではないだろうかと考えた。

 

勿論例外も生じる。仕事のストレスや、社会の中でなんらかの大きな摩擦に耐えられなくなって自傷行為をしてしまうこともあるかもしれない。そうい意味で行われる自傷行為というものは、また新たな意味を持つものだと思う。

理由は一つではないにしろ、大きく自己の自傷を選別するのであればそれは、二種類に分けられれるのであろう。マイナスの変化と大きな摩擦からくるフラストレーション。

ではなぜ、社会の摩擦から耐えられなくなってリストカットをしてしまうのだろうか?よく言われれるのは「血を見ると落ち着く、生きてる感じがする、構ってもほしい」などの意見が並べられるが、私の自傷行為のはどれも当てはまらない。

本当に自己の血を見ることが落ち着くという感情にストレートにつながっていくのか私は不思議でならない。それはリストカットに限らず、採血などの時は全くその現象は生じないのであろう。「リストカット」という自己を自らの選択で傷つけているという条件が重なって初めて感じる感情なのであろうか。

まず第一にリストカットは体力的にも精神的にも、ものすごい疲労を感じることが多い。それは比率でいうと7:3で七割が精神的疲労だ。故意に身体を傷つけるのは正常な精神状態はないので、なんらかの精神的な過度なストレスがそこに起きているの精神的な疲弊を感じるのだろう。

どうして社会の荒波にもまれながらも、ムチを打つように更なる疲弊を心身とも与えるのだろうか。その真理はまた次に話そうかな。

今日は少し話疲れたよ。