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コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

他者と自己 穴の開いたバケツ

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「俺は、自分の兄弟が腕を血まみれにしたり自殺未遂うを繰り返したりしているのはすごくいやだ」と彼は言った。

 

 

私の弟は高校二年生の16歳で、彼はまだ幼いながらにたくさんの物事を抱えて生きている。自分の兄弟がことあるごとに家を出ては戻り、食を失い、腕を血まみれにして生きている様を眺めているのはどんな気持ちだったろうか。

「お姉ちゃんには人を思いやる気持ちがない」と彼は言った。それは幾度となく、深い関係を築いた人々に投げられてきた言葉。その言葉の根源には自分の体を故意に傷つけることで他者が苦しい想いをするということを、自らに苦しみから逃れるためだけに遂行してしまう傲慢さに対する言葉だった。

 

私はいつだって、誰に対しても「あなたは本当に人を思いやれない人間だね」と言われてきた。その言葉の重みはとてもじゃないけど一人で抱えることなど到底できるはずもないのに変わらすに自分の欲求を満たすが為に生きている。

 

自らを故意に傷つける行為がどれほど他者にただいなる影響を与えているのかと考え理屈で納得をし水面下で「私が傷つくことで、心を痛める人がいる。失うものがそこにある」という頑な志を用意しても、それらはあまりにも脆くてすぐに壊れてしまう。形はそこあれど私の精神力ではうまくその理屈に追いつくことは出来なくて。

頭で理解し、人の痛みというものをベースに置き換えて生きてみても、自身の抱える闇はとても深くて。誰かの悲しみよりも遥かに己の苦しみが勝ってしまうようで。

 

それを誰かはきっと弱いというだろう。事実目の前にある光景は、意思の弱さと傲慢で頑な自己の意識を遂行しようとする傍若無人な様でしか映らないだろうし。それは紛れもない事実だ。

正論が嫌いだと振りかざすその言葉の先には自分のエゴしか存在しない。どこかかで自分という人間が可愛くて仕方がなくて、自分の宗教をいつまでも信じていて。私は私の気持ちのいいようにいつまでも生きていたい。自己世界の中で自分勝手に孤独感と空虚を抱えて、他者を取り込むも、誰かの言葉を許容することはできなくて。いつまでも自分の殻に閉じこもりながら、事がすべて思い通りに進むまで悲劇のヒロインを演じて立ち止まり蹲っている。きっとみんな知っている。

それでいても、他人は痛いほど優しかった。その裏側に何を考えているかなど知る由も、疑う術を持つこともなく。どこかで人間は無慈悲の心を少しずつ育み、お互いに分かち合いながら支え合って生きていくのだろうと思う。人と共存するには何かを失い与え、同時に相手もそれを担うことなのかもしれない。

私はあまりにも自分勝手に物事を放棄して失い、与えてもらうことばかりに気持ちを優先させてしまう。それによって人々は呆れ果てた顔で次々へと別の場所へ足を運んでしまう。

 

 

母親は言った「お腹を痛めて生んだ子供なのに、どうしてあんな風になっちゃったの」と行き場のない感情を、向けてはいけない矛先を翳して己の痛みを嘆いて涙を流した。

「お前もあんな風になってしまうぞ?」と両親は脅し文句でもあるかのように、私という反面教師を用いて弟をどうにか更生させようとする。もう二度と、彼女の二の舞になってほしくはないという強い感情をこめて。

両親も一人の人間であり、自分の血をわけて産んだ子供とはいえ、彼らにもキャパシティはあって。その器の限度をはるか多く超えてしまっていたのだろうと思うことがある。人間はどうしたって手の打ちようのない圧倒的な壁や問題にぶち当たると、それが自らの範疇の域を超えて肥大化してしまうと「もうどうしていいかわからない」というところに行き付くのだろう。

きっとそれぞれが痛みを抱えて、それでもどうにかしようと試行錯誤しながら生きるも、他者との共存や人と生きるということは、例え家族であっても並大抵のことではないと思う。お互い異なる思想をもった人間が家族という枠組みの中で閉じ込められるがあまりに、より一層その距離感の図り方を見失ってしまうんだろう。

 

どこかで出会った言葉の表現で「家族は赤の他人である」というセリフが本当に大好きだった。この言葉により、都合の範疇の中で、うまい具合に落とし処をつけて生きていけるような気がした。事実それらはすべて自らの過ちや犯した罪を癒すがための、都合のいい肯定を作り上げるモノとして使用していただけかもしれない。

本当の意味さえも、その曖昧な比喩表現で都合よくはき違えて、自分の都合のいいように落とし処をつけながら、私は何も変われずひたすらに自らを傷つけるポーズを取りながら他者を傷つける一方でしかないのかもしれない。

「私が腕を切ることによって、両親が心を痛めようと、泣き喚こうと、それでも彼らに対する情など一ミリも存在しないんだ」

と言い切ったことがある。その言葉を聞いた弟はすこし驚いたように、そして諦めた顔で心の中でやっぱりねと言っているような気がした。「あなたには思いやりがない」その言葉がこの場面でひしひしと音を立てて私の内側を突く。

いつだってきっとそうなのだ。その痛ましいグロテスクな行為は、その行為が大げさに映って見えてしまうだけで、私の主観で生きる時間は進み、腕を切るという行為は誰が泣き喚こうが『たいしたことない』行為として片づけられてしまう。

 

 

あくまで自傷行為という事実上の何かを題材といて話を進めているだけで、きっと何事に対しても、私の中ではたいしたことではないと片づけられてしまうものは他者がどう受け取ろうとも、主観でしか物事を遂行することができない。

人のことなんてわからない。人の痛みも、喜怒哀楽や、なにをもって悲しいという札をあげるのかもわからない。でもそれは「わからない」という都合のいい言葉でおざなりにされるべきこではなくてね。

自分自身の感情の札を、他者に押し付けているだけなんだ。私が楽しいという札をあげれば世界は他社も含め楽しく、悲しいという札をあげれば他者にとってもそれが悲しいことなのかもしれないという、個人の尺度の押し付けで。

人間関係のルール決めの上で基準となっているものが互いの意思ではなく、私個人の意識ですべてを決めてしまおうとしているのだと思う。でも、人は人で帰ることなど到底出来なくて。誰かを自分の札通りに動かすスキルも持ち合わせていない。そこに憤りを感じ、赤ん坊のように泣き喚いて救ってもらえるのを待つばかりの人生を送っているのだろうと思う。

 

 

こういう風に締めくくり、片づけてしまうのはあまりにもあっけなく、本質から目をそらそうとしているかもしれないが。

自分のあげた札でしか他者との共存を気づけないという部分が、境界性人格障害特有の症状のひとつなのではないかと考える。穴だらけの身体を満たすために自己世界の中で完璧に他人を引きずり込もうとしてしまう。塞がれることのないその穴は、大きな痛みを負うことは泣けれど満たされない空虚に晒されてちくちくと痛む。その痛みを癒すべく必死に自分の札をあげて訴えかけることでしか、誰かと関係をはぐくむことができない。

本当に大事なのは、他者の札を受け入れることや自分の意思を誰かに押し通すことを抑えることではなく、まず第一にその穴を塞いでしまわないといけない。それでも、わたしは未だにその穴を塞ぐ方法に出会えない。

何かしらの形で一過性の多幸により穴ががひと時ふさがれることがあっても、注がれた水を受け止めるほど頑丈なものではなく、すぐに栓は抜かれ、注がれた水はみるみるうちに穴から放水し始める。本来水が満杯になることを望んでいるのに、どんどんと水は減っていき。空いた穴や器のまるごとが痛くて仕方なくなってくるのだだろう。

 

 

 

 

わたしという穴だらけのバケツがあって、その穴を埋める一過性の幸福はあまりにも脆い穴を塞ぐ術でしかない。注がれた物への許容をすべてせき止められるほど。立派な補修はまだできない。

はたしてその穴は、少しずつちいさくなっているのだろうか?