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コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

言葉は料理 自己のユートピア

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必要があればいつだって嘘をつくし、私が捨てたいときモノを捨てる。

打ち明けてしまえば壊れるものであるのなら簡単に打ち明けて、すべてないものにしてしまえる。簡単に手に入るものはすぐに壊れる。それは人間関係においても同じだ。

 

私自身がとても簡単だから、目を離せばすべてのものは簡単に壊れてしまう。約束だってすぐにやぶれてしまうものでしょう。信用なんてどこにもない。明日の私がわからないのに、どこに確かなる真実があるというのだろう。それを信じて近づいてきては裏切られた顔をして捨てられていく。なにそれ

 

捨てられてもいい、いつ手放しても怖くないものしかほしくない。傷つきたくない。無駄な労力を割いて日々疲弊している心をより一層蝕んでいくことのないように、いつだって保険をかけて生きてる。

一つじゃ足りない。だって、目の前にいる人々は不確定な生き物でしかないから。いつしか知らぬ間に彼らの心の動きひとつによって私は手放されてしまうくらいに簡単ない君のならば、失っても怖くない生き物として其処に存在していてほしい。だって変わりはいくらだっているから。私だってあなただって個であることの主張など、この人類の何十億という人間にまみれてしまえば、それを頑なに主張することなど個人の中でしか意識することができないもの。

わたしだって、あなただって、変わりはいくらでもいる。

「大切、大好き、生きて、」なんて全部嘘。人はいつか死んでしまうし、悲しみを永遠に留めておくことはできない。

あなたの代わりがいくらでもいるように、私の代わりだって腐るほど世界に存在するならば、此処に生きてる意味は一体どれほどの価値があるというのだろうか。

 

 

 

 

「期待しないで、見据えないで」そうやっていつも何かに怯えてばかりで、今の私は何処にも行けないし歩くことさえできない。こうして言葉を綴ることさえ、それは感性という美しい言葉で片づけられるのか「ポエム」という社会の吹き溜まりとして消化されてしまうのか恐ろしい。

笑ってるかもしれない。本当はどこかで、私の訴えかけも、何もかも誰かは嘲笑って蹴落とされてしまうかもしれない。

 

言葉はあまりにも主観的で抽象的に生産されすぎて、誰にも届かない。独りよがりの戯言として吐き捨てられてしまう。噛みしめられることなく、味わってもらえることもなく。

会話が料理であるとするならば、脳内のキッチンで料理が行われる。出てきた料理は相手に対してふるまわれたもの。好き嫌いは人それぞれあって、食わず嫌いをしてしまう人はきっと多い。「こんなゲテモノが食べれるか!」と見栄えの悪い料理はいとも簡単に食されることなくゴミ箱に捨てられる。見栄えはよくとも咀嚼した途端に相手の口には合わず、吐き捨てられてしまうかもしれない。きっと逆だって存在するだろう。美味しいといって「もっとほしい欲しい、お腹がすいたと」言葉を美味しく味わって血となり肉として彼らの栄養になっていくかもしれない。

料理と同じように、紡がれる言葉や会話にも好き嫌いがあって、食わず嫌いだって存在する。食という言葉の好みは人それぞれなのだ。

 

誰しもが、口々に美味しいねと騒ぎ立てる料理などこの世には存在しない。言葉の味覚は人それぞれ異なるのだ。それにも関わらず、口々に美味しいと囁かれる料理を振る舞えるようにと、言葉の「和、洋、中」をすべてマスターしたような顔をして、どれをとっても味がしっくりこない。何一つとしてその本質をとらえずに、表面上だけの見繕いで生きている

その料理は誰にも響かない。誰が口にしても美味しいと囁くことはない。

安い材料で見繕われたその言葉たちは、惰性で誰かに消化され忘れ去られていくでしょう。口にしてもらえたとしても、それらは彼らの中での「好物」として心には残らないんだよ。出来合いのもので即席と見繕われた多くのゲテモノは数を打てば当たるものもあれど、誰の心にも響かず消化されてしまう。

誰の心にも響かない安物の言葉を日々吐き出して、吐いて捨てるように消化され。生産を続ける事にどれほどの意味があるだろうか?誰かにとっては必要のない言葉であっても、また別の誰かにとっては無くてはならないものとして其処に存在し続けることができているのだろうか?

 

 

真実がわからにままに、いつまでも吹き溜まりのように生産され続けるこの言葉たちは何処に向かって、誰のもとへ振る舞われ、咀嚼され、味わってもらい、捨てられていくのだろうか。

そこにはきっといつだって誰かという第三者に対する意識があって。私なりの味付けで調理してきた言葉たちが溢れている。誰が目を留めて手をとっているかも、その事実さえも分からない言葉たち。自己満足という言い訳と落とし処を並べて見えない何か淡い期待を抱きながら。

 

いつだって私の中には誰かという不確定で曖昧な存在がいて、意識し続けて生きているんでしょう。感情も思いも嗜好も、その見えない心の中に作り出した誰かに操られて、いつしか何が本当のに自己が求めているものかもわからなくなって一人で泣いてしまっているでしょう。そんな不確定な闇を抱えながら生きる人間に手を差し伸べてくえる人など何処にも存在しないことは知っているのに。

「私は救われません。自分の心の空虚によって不幸です」という張り紙を顔に張り付けてに小さく、時に大きく呼吸をしている。そのあらがえないほどの闇の中に自己の意思表示を掲げながら、いつか誰かに気付いてほしいという愚かな願いが込められていて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お父さんお母さん。腕を傷つけて悲しませてしまってごめんなさい。生活の中で自分の愛する娘が傷ついている体を目に留めて、心を痛ませていまってごめんなさい。こんな綺麗ごとを吐き出して物乞いをするように「どうかわたしを見捨てないでください」という悲劇のヒロインの裏側に込められたどうしようもな私が愛おしくて憎くて仕方がない。本当にあなたは自分を憎いと思ったことが、この一生のなかで一度でもあったことだろうか。いまだに忘れない。きっとこれからも。腕を傷つけたとき、一番大切な人に言われたセリフ、「君は本当に人に対する思いやりの気持ちがないんだね」

人の痛みがどうしたってわからない。彼の涙も、母の叫びも、父の怒りも、誰かの悲しみも時が経てばそれらは美化され、文章に起こして「こんなに美しくも悲しい物語がありました」という顔をして消化されてしまう。

きっとなにも分かってなんていない。自分が行っている行為をもしも大切な人が目の前で行っていたとしたら、それは目を覆うような光景だろう。ただそこにある感情は「グロテスクな光景」という実情でしかない。大切な人が自らを傷つけて痛んでいるという慈悲の気持ちなど、1ミリたりともないのだろうと歳をとるごとに驚くほど感じる。

リストカットによって大切なものを失った事実は、それらは誰かを傷つけてしまったことへの反省や心の痛みではなく、自分の手元にあったはずのものを無くしてしまったときの悲しみや空虚な気持ちに近いのだろう。事実私は、誰かに対する謝罪の気持ちや反省ではなく、自分自身が痛いということでしか物事を辞めることができない。

そして最大の欠点としてあるものは、いつだって自分の心の痛みをどこかで求めてしまうのだろう。物事は堂々巡りだ。いつだって自己を肉体的にも精神的にも、二度と戻っては来れないように傷つけたい。それは個人のさじ加減でいくらでもそのウェイトを左右してしまうことができるという条件のうえで。

私は私の神様で、痛みを快楽おどれほどのさじ加減で与えることができるか、すべてを握っている。それを与えることが許されるのは自己だけで。

きっと本当は他者からの圧倒的な痛みを求めているのに、大人になればなるほど、善人と悪人の線引きは曖昧になっていく。見方を変えれば善人も悪人になってしまうし、その逆さえもある。だからこそ、自分の世界の中で丁度いい悪人と善人を作り出してバランスを取ることでしか上手く息ができないのだろう。自己のが作り出したユートピアの中で歪んだ快楽に溺れるあまりに、いつしか他者とのコミュニケーションの取り方を忘れてしまって。誰かの投げる痛みが些細な石ころでさえ、大きな岩のように感じてしまっていたのだろう。

 

私はいつまで自己のユートピアの中で息をし続け、知らぬふりを心を少しずつ殺していくのだろう。劣った「安心」の中で息をし続け「ストレス」という摩擦を受けることなく生ぬるい孤独の中で、傷付けながら赤ん坊のままで居続けるのだろうか。いつしかそれらは新鮮な空気に触れることなく、日の目を見ずに赤ん坊のまま腐って死んでいくだろう。救われるはずだった命さえも怠惰な感情によっておざなりにされ葬られることなくひっそりと息を引き取ることだろう。

 

 

 

日々に大きなストレスという摩擦はどこにもない。自己世界の中で、身を案じながら、腐って死んでいく。

それはあまりにも、その尊いものへの冒瀆ではないだろうか。いつしか美しかったものさえ汚れてだめになってしまう。目に留まった即席の言葉を拾って表現するならば、それはあまりにも「勿体ない」ことではないだろうか。

 

日の目を見たい。他者から受ける痛みや喜びや快楽、評価、当たり前のように社会で繰り返されていく人間関係の摩擦に気持ちよくやすりをかけられて、本当の意味で美しくなりたいと願っています。