コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

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きっと今ある結果や出した答えはあまり利口じゃないと思っている。
私自身がどうあるべきことが一番の幸せなのかについて考えれば、答えは一つしかない。ただそれを遂行するにはまだ未熟すぎる。先のことはわからないどう生きたらいいのかについて明確な答えなど何処にもない。

ただ、私自身の根底にあるべきものをしっかりもう一度見つめ直すのは大切かも知れないと考えさせられた日々を送っている。もう2度と同じ過ちを繰り返さずに、無駄な痛みを伴うことなく私は生きていたいと願っている。


人のことはわからない。
分かったような口を聞けば、それは誰かを逆撫でするのに丁度いい武器に成り替わる。事を荒立てないようにするのが私の中でのルールなら、その分自分の中でうまく消化する妥協案を見出していけばいい。落とし何処をつけてうまく生きていけばいいと思うんだ。

私は誰かにとって都合のいい人間になる必要も、自己を押し殺して生きる必要も何処にもないと思う。そんなものは誰かを想っていることにはなり得ない。お互いが、その人間関係の上で幸せにならなければいけない。誰かにとっての大切な人でいることは、自分自身をおざなりしないことは大きな答えのうちの一つだ。
誰かを大切に思うばかりに、自分自身に向けてやる目や意識を疎かにしてしまうと、それらは愛情や優しさではなく、単なる都合のいい良い人で終わる。正しくないんだ。



他者と自己の意識の持ち方や美学、考え方は十人十色で、それぞれの正しい答えを持っている。誰がどうではなく自分が正しいと思うやり方で、正しいと思う道に進めばいいよ。

誰がどうじゃないよ。私がどうしたいかということなんだ。
だから泣くことはないし、悲しみに打ちひしがれることもない。今を噛み締めながら、この先のことは長い目で見つめてみよう。

人の感情や情動から突き動かされるもの、意識は天気のように不安定で革新的なそれらを持続的に持ち続けることなど不可能に近い。それを踏まえた上で、長い目で物事を見てみようというのが私自身の答えである。
自分なりの正しいやり方であると思う。


他者のことは分かり得ない。同じように他者も自身の心の蟠りや意識を正確に捉えることは出来ないだろう。
お互い様なんですよね。


いつかこの手から離れてしまうであろうものに対しての不安にウェイトをかけるよりも、離れてしまわないように繋ぎとめておくことへの精進を心掛ければいい。
手放してしまったその時は、仕方がなかったよねと笑えればいいのだ。立ち止まっていられるほど人の時間は長く与えられていない。


その為にも、いつどんなことが突然に起ころうとも、自分の心や体を守れる蓄えを持っておくというのはとても大事だ。
ある意味で言えば、あまり美しくない言い方をすると「保険」をかけるという言葉選びでも間違ってはいない。

もう子供ではない。泣き喚いても、怒鳴り散らかしても、現状が変わることに望みを託すほど曖昧で不安定なものに人生を託していられる年齢ではない。
これまでもきっと、その間に関して失ったものは多くあるだろう。


幸せに生きよう