コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

知られる自己

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誰が悪いとか、悪くないとか、そういう話でもなくて。

最近は写真ばかり撮っている。それが良いとか悪いとか、つまらないとか面白いとか、そんなことはどうでもよくて。自分が観た世界を見たいように捉えられた形がそこに残せることが一番の醍醐味であるということ。

其れ等は誰かにとって、言い方を変えればただの自己満足でしかない。他者に対する需要や供給が成立する世界に立てるほど立派じゃない。自己の中での需要を確立させたいがために写真を撮る。
それほど心地の良いものはない。
好きなものに触れているときは気分も多少晴れる。自分自身の趣味思考は自分が一番理解しているからこそ、自らの手で生み出す魅せられた世界に身を浸すことが出来るのは、満足度がとても高いように思う。




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何時だって自己世界の中で息をしている。それはとても気持ちが良くて、そこには他者の介入は一切無く、肯定も否定も存在しない。己の思うがままに物事を曲げて都合の範囲内で思考は遂行していく。良いも悪いも。真実であるか虚像であるかということは至極どうでもよいものになる。
頭の中に作り上げられたその世界は自由奔放に意識を散乱させることが出来る。

あまりにも自己世界の中で身を肥やしているばかりか、他者と共に作る時間を器用に刻んでいくことができない。
どんな表情を作り、どんな話をして、どんな風な動作で相手に自分自身というものを捉えられているのだろうか。もしくは捉えてもらうことが出来るだろうかと考える。「知られる自己」というのは他者の受け取り方次第で事実は最も簡単に歪められる。歪められるという例えをしたが、彼らの中では確かなる事実であり、当事者側の真実というものは受け取り側からすればとても曖昧なものでしかない。

どう見られて、どう受け取られ、どう感じられるのか。どんな風に受け取ってもらいたいのか。「知る自己、知られる自己」と共に自分自身が望む他者に対する評価と、受け取り側の事実に相違が生じることは多くあるだろう。それをどのようにして消化していけばいいのだろうかと良く考えることがある。

そこで悩ましく思うあまり、何処かで消化されない混沌とした気持ちは自己世界で創り出される都合の範疇内で甘い蜜が塗りたくられていく。逃げるがために、慰めるように、時には正反対の手法でどん底の淵まで引き摺り込む。

曖昧さを回避できない真実とやらは簡単にねじ曲げることができる。スライムのように柔らかく、実態はあるのに確かな形として其処に残ることはない。
そんな曖昧な物に縋って生きていては、いつか深淵の淵から突き落とされて二度と戻って来ることが出来ないのではないだろうか。

己の中に存在する真実というスライムは、まだ柔らかくて確かなる形を見出すことはできない。四方八方に様変わりしては、一過性のものに過ぎず、確かなる事実として其処に存在を確立することはできない。それはきっと、分かりやすくトゲを加えて言い表すとすればブレてるとも捉えられる。
きっと、このような事柄が胸の内に痞えるあまり、他者の前で堂々とありのままの自分自身という人間を露わにすることが出来ない。不確定な真実というスライムを自分自身が信じることを出来ないのに、未完成のまま表に放り出すことにとても怯えてしまう。裸の赤ん坊を高速道路に放り投げるような心情なのだ。

恐れや怯えが生じるあまり無駄な厚着をして自分の身を隠すことに勤しみ、曖昧な真実を露呈しないように沢山のフィルターをかけ他者と関係を築いてしまう。それらが積み重ねなることにより、確かなる真実は何処にあるのか?はたまた全てが嘘でしかないのか?という具合に己の何を信じればいいのか分からなくなる。不明確になる一方で悪循環が産まれ、負のループに陥ってしまう。

歳を重ねていくごとに少しずつ頑な何かが増えていくことがある。それは多くのものに触れて様々な世界を映し出すことにより、少しずつ自らの中で一定の何かが引き抜かれていくのだろうか。選択肢が多ければそれだけ目移りとするけれど、その中で自分が心から信じるべき事柄が確立されていく。無駄なものが削がれ、残っていくものこそが己の信用に値するものなのかもしれない。
そうやって、自分自身の何かを信じることが出来る物が生まれたその時は、少しだけ柔らかいスライムも一定の形に留まることが出来るだろうか。そしていつか確かなる形を成し、事実として堂々と他者に魅せる時が来るのだろうか。

先々のことは分からない。恐れ多いものに怯えながら逃げるように自己世界へ逃避する日々の中に、確かなものが見出すことが出来るだろうか。様々な物事の積み重ねの中で育まれる意識たちを恐れること無く他者に発信できる時が来る日を望む。

恥じること無く誰かの前に立ち、言葉を発信して、視線や動作や言動全てにおいて、それらを信じれる時がくればいい。
今すぐじゃなくていいんだ。人はすぐに変化することはできない。かといって何時までもぬるま湯に浸って甘い蜜を吸っていてはずっと殻に閉じこもったまま、気付いたら人生が幕を閉じてしまうかもしれないので、怠け癖がつかない程度に自己のペース配分を見つけて行こう。