コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

他者の人生を生きる必要はないよ

ああ!

どこかで他人と自分を線引きして、傷付けられることを免れる為に、顔色を伺ってご機嫌取りばかりしていると心がどんどん窮屈になって他人の人生から離脱してしまいたくなる。それこそが堂々巡りの諸悪の根源になっていたんだ。事の解決に対する妨げをしていたのは自分自身が他人と向き合おうとする気持ちを、何処か艇のいい理由を付け加えておざなりにしているからなんだ。

人付き合いとは、自我を押し殺して相手にとってのいい人で居ることじゃない。自分の中で無理に作り出そうしていた「いい人」を演じるたびに、どこかで相手に対する義務的な接待をしているように思うのは、面倒なことを免れようとする不純な感情のしわ寄せが物事を拗らせていたんだ。自分で自分の首を絞めていたんだよ!

 

他人と向き合うということは多少なりとも面倒に思うことはあれど、それを共に乗り越えることによって深まる絆もある!といういかにも臭い台詞を吐く気にはなれないけれど、あながち間違ったことは言っていないな。人と向き合うということはそれなりの覚悟を必要として様々な代償を被ることは大なり小なり起こりうるだろう。それでいても私は誰かと共に生きたいと思って人と繋がるんだ。

周りの人々は自分と一緒に生きてくれようとするならば、愚かな防衛線を張ってそこに甘んじるばかりではなく、自分自身も出来る限り他人と向き合う姿勢を持って生きていくべきなんだろうなと素直に思う。

 

 

人付き合いのうえで、もう少し自分のしたいように生きてみていいと思ったよ。もしそこで上手くいかないことがあれば一緒に考えるのを手伝ってもらおう。逆もしかり相手が互いの関係の中で躓くことがあれば、その時は自分が手助けになってあげればいい。

その繰り返しの上で互いが少しずつ駄目になってしまったその時は、「やっぱり上手くいかなかったね」って二人で笑い合えばいい。

 

すべての人間と仲良くすることは出来ないけれど、誰とも仲良くすることが出来ないわけじゃない。不仲になることや他人の否定を恐れるあまりに何処かで見えない距離を測って窮屈に思う関係を作り無理に笑顔を作るくらいならば、真正面から向き合ったうえで本当に仲良くできる人々を大切にしよう。

多くの人々と当たり障りのない関係を築くことに労力を費やしていつまでも拭われることのない虚無感を抱いて生きるよりも、きちんと自分に向き合ってくれようとする人々を大切にしようとすことに労力を使うほうが人生においてのメリットは大きいと思う。

 

 

誰しも合う合わないはあるんだ。自分をひた隠しにして、無理に突き進むことはないし。お互いに自分自身を押し殺して相手に合わせることで我慢大会を始める必要もないと思うんだよ。どこかで折り合いを付けていきながら一緒に居れたらいいと思う。折り合いであっても互いがどこか窮屈さを感じてはいけない。

誰かと一緒に居たいという気持ちが強いがために、他人の人生に自分が生きていく必要はないと思う。自分が生きるべき場所を忘れないようにね。互いの人生を生きながら、同じ時間を共にすることが出来たらピースフルだと思うんだよね。

無理に一緒に居ることはなくて、言うなれば「お別れ」という答えを出したとしても、それは悲しみという感情だけで覆われることではないと思うんだよ。どうしても譲れない何かがお互いの中で食い違うことがあれば、相手ではなく自分の生きる時間を優先することも一つの選択肢として頭の片隅置いておくのもいいよね。誰しも完璧に相容れることはできない。それを悲しむことはなくて、自分の人生にしっかりと地に足付けて向き合おうとする姿勢だからこそ、立派なことなんだ。

 

私は自分の生きたいように生きるし、君も君のしたいように生きたらいいよ。偶然にも同じ方向を向いていたその時は一緒に歩こうよ。