コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

毎日生きていることがとても苦しい。新しく始めた仕事はすぐにやめてしまった。社会に立つという恐ろしさと、自分の不甲斐なさに心を押しつぶされた。人の視線や言葉がけや、誰かはそれを「気にしすぎているだけだ」という言葉で片づけるけれども頭の片隅では理解している。他人はそこまで自分自身に対する興味がないという皮肉さえも。

なにがどうして心の不安がいつまでたっても取り除かれないのだろうか。毎日自分が生きていることが鬱陶しく思う。ある人は生きている限り、それは自分が生きていたい証拠であるという説を唱える。生と死に対する個人の尺度で図られた感情論に対する他者の正論は酷なものがあるという話だ。

 

誰かはいう。きみは日本という幸福な国に生まれ、多くの情報を得て生きているからして、怠惰で退屈な毎日に対して人生から離脱するという方法で自分の何かから逃げ出したいだけなんだと。君の悲しみというのはすべて虚言で、悲しいアピールをすることで他人の気を引く哀れで寂しい人だと。もっと多くの「生きるとは」というテーマに対して、自分の凝り固まった思考回路で固めるのではなく生死の境目に自ら飛び込み場所に生きるとはどういうことなのか自分の身で確かめてみるといいと。

 

本当に立派な言葉だ。結局のところ、自分自身の苦しみも悲しみも他者からしてみればすべて虚言でしかないのだ。何か不安を抱えた心の吹き溜まりを吐き出すそれさえも誰もかれも蔑んだ目で自分を見る。他者に対して救いの種を求めることすら哀れなことだというのに、いつまで経っても人は一人では生きてはいけない。自分の苦しみや悲しみや混沌とした感情は一体どこで綺麗に後腐れもなく消化できるのだろうか。

「なにかあれば相談しておいで」なんていう他人の無闇に発動された言葉の矛先はどこに向かっているの。自分の求めるものがそこにはあるのですか?恐ろしいほどの正論にねじ伏せられた不安はより一層大きくなるばかりで、行き場を失ったそれらをぶつける場所は自分を傷つけるそれでしかない。

リストカットをするな」という優しさと正論はいかなるものだろうか。八方塞がりのこの社会に対する心の幸福への糸口は一体どこに潜んでいますか。

 

君のことを大切に思っているという言葉の信ぴょう性は一体どれほどのものがあるのでしょう。他人に対する配慮とは。他者と共存する上で置かれる距離とは。どこまでをひた隠しにして生きては、いい案配で開示する方法が見当たらない。私はどう転んでも私でいることしかできないのに、それさえも誰かに否定されているようでとてお恐ろしい。他人から向けられる言葉が怖い。一体どこに心の安らぎと拠り所がるのだろうか。どうしたら、どうしたら、どうしたらもう少しうまく生きることができたのだろう?きっとこんな私の言葉をどこかで彼が見据えているとするならば、このまま「君はずっと哀れで悲しい、寂しい人でしかない」という皮肉を並べられて心の中でまた一つ自分自身が殺されていくのだろうか。

 

私という人間は、他者の中に生きる人格と自己の中に生きる自分自身という双方がバランスよく存在するはずなのに、それらのウェイトのかかり具合が他者に重きを向けすぎている。そうすることでとても苦しくなる。自己の中での自分というものに対していつまでたっても優しくなれない。他者がベースで自分の人格を作り出していくなんてあまりにも哀れな生き物だ。どうして私はいつまでたってもこんな風にしか生きていくことができないのだろうか。心のわだかまりは何時までたっても拭われない。一人で泣くことはそろそろ疲れましたとさ。さよなら