コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

救いのない安心

起床5時。

蜩が鳴きはじめる。夏の日暮れは遅い。まだ外は明るくて、蝉も求愛に勤しんでいる。十分過ぎるくらい眠りに高じた身体は頭も肉体も重い。自失を出てキッチンに向かうと夕飯の支度をはじめている。今日のご飯は炊きご飯のようだ。

 

様々な物事に対する諦めとは、時と場合によっては人の心を壊す時がある。もしも、その壊れてしまった先に救いのない安心感を抱く時がどうしても心の根底にあるんだ。本当にどうしようもなくなってしまった場合に、自分の目に映る世界はどのようになってしまうのだろう。生きることに対する諦めさえ芽生えてくるのであろうか。

また一つ諦めた。大きな諦めによって、心を壊す方向に繋がるか未来が広がっていくかは未だに不確定だろう。諦めによってどんな結果を及ぼすのかは、すぐには明確には表れては来ない。

壊れてしまう安堵感。生きるということへの窮屈さ。どこかで期待しているであろう救いのない世界。もしも、自分が生まれた時代を遡って、今よりもずっと時代の動きは鈍く人々が必死に生きていたような年代に産み落とされていたらは、私は社会の思想に刷り込まれた物を頑なに持ち生きることへの誠意を見出すことができたであろうか。

 

昔は、とてもじゃないけど苦しい時期があった。毎日が怠惰でどうして自分が生きているのかさえままならなかった。気怠く、毎日泣き叫び、何もない自分自身をいつ殺してしまおうかと考えながら、死ぬ結城も大した理由もなく生きていた。惰性という言葉が日常化していくことの残酷さはどれほどのものであろうか。

もう2度とあの頃になど戻りたくないと考えていたはずだよ。まともの基準さえも、とても不明確だが、その曖昧な社会の基準に応じて生きたいと思うことがあった。当たり前のように人々がこなしている暮らしの流れや時を刻む中に自分も生きていたらいいのにと強く思うことはよくあった。

今ではどうであろう。壊れることへの愛しさととは何であろうか。

大切な人々はどこかで私を見捨ててしまうのではないだろうか。「君はやっぱり駄目な人だったね」どこかで誰かに囁かれているのではないだろうか。様々なことを一生懸命に協力してくれた人々は、今の自分を見たら失望するだろうか。誰かの中にどこかで着たいを抱かれているのはとても恐ろしい。私は他人の期待に応えることはできない。そうやってまた、人々は無力な人間を置いていき新しい道に進んでいく。私だけが一人此処に残されて泣いてばかりだ。

「もう、やっぱり君は駄目だったね」そんなことを彼も思っているだろうか。いつまでたっても私はただのクズでいることしか出来ないのだろうか。頑張ってもがいても同じことの繰り返しだ。いつもそうだ。

 

一緒に居たい人々さへも自分の不甲斐なさで多くの物を失う。誰も彼もみんな私のことを忘れていってしまうのだろうか。

「君はずっとここにいるんでしょう」私はいつまでもここから動けることが出来ないのか。もう何もかも駄目なのだろうか。いつか本当に死んでしまう時が本当にくるのだろうか。誰も彼もに看取られずに屍になって衰退していくのだろうか。

 

もう2度と、あの人は戻ってこないだろう。離れていってしまった人々の中で、私はいつまでたってもダメで醜い人なのだろう。だからこそ、誰にも愛されることなく、自分を滅すように空虚な溝を埋めた気持ちになって、そして壊れていく安心感を抱きながら歩いていくだろう。

何を言っても、気持ち悪いね。自分自身が吐いた言葉だと思うと反吐が出るね。そうしてだろうか。私は人に無償の愛を求めているのか、肯定されたいのか。誰かに愛されたいけど自分自身を愛していない。愛されたいという一方的な気持ちの先にある理由さえもよくわからない。どうして、心の溝をそういう形で埋めようとするのだろうか。こんなに愚かな生き物であるくらいなら、同じことを繰り返してしまうのなら、死んでしまいたいという気持ちさえも甘えでしかないのか。

どこかで誰かにずっと責められてる。

でもそれを、君は言ったよね。「悲しみを演出してるだけだよ」って。私の気持ちはそうやって消化されることなく死んでいくのかな。行き場を失った悲しみはどこで留まって、積もった感情が溢れてしまった場合に人はいずれどうなってしまいますか。その時に何かの拍車をかけて死ぬことができるのでしょうか。

どこまでいったら死という安心感に近づけるのか教えてください。先生。