コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

見えないゴール

ちょっとだけお預け

 

漠然とした日々が辛い。

どうして辛いの?どうして辛いのか自分自身でもわからなくなる時がある。様々な状況を自分の心の中で肯定してみても、他人に肯定されても、それはだっぽん的な解決に繋がることはない。時に心は受け入れることで何かの救いに行き着くこともあろうが、有耶無耶な工程や受け入れは事の根本の解決策には行き着かない。

改善しなければいけない物事は多くある。自分自身の心の問題でもだ。「そのままで大丈夫だよ」現状が辛い以上、そこから脱却したいという気持ちを持つことは、大切なことではなかろうか。

精神的病の終着点はどこにもない。ゴールの見えない長距離走を行っているようだ。最終的な判断としては、どうやって上手く向き合っていくか。風邪のように目に見える完治など其処には存在しない。どうやって彼ら(精神疾患)と仲良くしていこうとするのか。それは自分自身の気持ちや言動をすべて心地よく肯定することではない。仲良くするうえでは勿論のこと人付き合いと一緒で、互いが自由奔放にやってはいけない。いつか壊れてしまう。

現状が苦しいという事実はここに存在する。その事実に目を背けないで。問題意識に着目することは大切だ。痛いものは痛いし、その痛みを軽減させるために治療に当たる。心の問題においてすべての物事は綺麗に解決に行き着くことはない。心の自然治癒能力にも個人差があるだろう。

しばらく昔にも説いた話、無理に解決策を見出そうとすると、様々な方向性から垂れ下がった糸は絡まってほどけなくなる。

無理強いをすることはない。でもね、問題意識を持つことはとても大切だと思う、現状で自分が生き辛い人生を送ってしまうのならば改善する余地はると思う。受け入れるとはいろいろな物事をおざなりにして前に進んだ気になる事ではない。問題が事実としてそこに生じている。結果的に苦しみに繋がるのであれば、その物事に対しての応急処置が必要なのだ。

受け入れるという言葉を用いて、問題意識から目を背けるということは、そこに大きな傷口がある場合、塞ぐことをせずに放置することに近い。傷口からばい菌が入って炎症を起こして取り返しのつかないことになってしまってはもともこもない。心も一緒なんだ。上手く受け止めていくということは、今ある問題意識を少しずつ修復しながら、その後の大きな痛みから退けるための手段なのだ。傷口を放っておいては、どんどんと悪化していく。

完治を望むべきでなくとも、現状以上の痛みに苛まれることを事前に防ぐことは出来るだろう。これ以上苦しむべきではないんだ。

 

心の問題にゴールはない。でも、私たちはこれ以上苦しむべきでもないと思う。より一層大きな痛みに見舞われることを防ぐために治療を続けるんだ。求めるべきものは勿論、物事に対する完全なる解決ではなく、予防線を張り更なる痛みを負うことを回避して、少しずつ自分と仲良くしていけることが大切なのではないだろうか。

ゴールの見えない長距離走。そこに大切なものは自分のリズムを掴んでいくことだ。どうすれば自分はこの長距離走に適応できるのだろうか?それは長距離走初心者には分かりかねることも多いだろう。

1人で我武者羅に走り続けては倒れてしまうこともある。自分自身の企てた理論を並べて走り続けてみても、時に心の疲労は正直過ぎるほどに現れる。困難を感じながら生きている以上、己の力だけではどうすることも出来ない事実がそこに現れる時がある。もっと走りたいと願っても個人の体力差や限界があって、意識とは追い付けずに限界を感じるように、心にも体力や限界があるのだ。見えないどこかで少しずつ心は壊れていくことがある。そういう時は専門家を通じて上手く走れる方法を、個人の特徴を見ながらそれぞれの走り方を一緒に見出いだしていくことも、大切なのではないかと考える。自分だけでは分かりかねる問題は誰かを通じて方法を教えてもらったり、手伝ってもらえばいい。他者に自分の救いを求めるという話ではない。心の病という長距離走を上手く走っていく、言い方を変えるとするならば自分自身の中で抱える心の困難と今後一緒に歩いていくうえで仲良くする手立てや方法を他者の力も借りて教わったり、一緒に探してもらう。これも心の病と付き合っていくという意味合いの一つではないかと感じる。

私たちは足を止めることは出来ない。どこにゴールテープを持った人々が居るのかも分からないんだ。1人で走り続けることは時に困難に思うときがある。より良く生きる上では他者の力を借りることも、また一つ自分自身の生き辛さと上手く向き合う鍵になりうる話も一つ。

物は使いようだと思う。賢く使えば時に思わぬ効果を発揮することもある。賢く使うためにも、自分自身についても含めて様々な物事を考えることは時に重要なことなのかもしれないと感じる。