コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

心の芽を植え付ける

腹が立つという言葉が好きだ。

私は22年間生きてきた人生の中で、22歳にして初めて腹が立つという言葉を使用したと思う。それはとてもシンプルで怒りに対するウェイトの向け方が規則正しく向けられているように思う。

 

昔から、あまり男女関係に関する話題は苦手だった。自分自身が蚊帳の外である以前に、その根底には恋愛というものを用いて自分の意志感情さえも簡単に疎かに出来てしまうことを知っている上でとても恐ろしかった。ある意味では誰よりも馬鹿な女になれる自信はあったんだ。

それは何度となく誰かが思っていることであろう言葉を並べるならば、恋をすることで人間は様々な物事を見失ってしまう。不器用であればあるほどに。自身の人格が安定していない人間が行うそれは、足を突っ込んだ瞬間に泥沼のように抜け出せなくなる。すべての意識が相手に向けられるほどに、時に人間は馬鹿になれる。

人々は他人が想像するほどに賢い人間ではない。恋愛において尚更に頷ける話だ。

人を好きなること、人に執着することは全く別物であって、多くの人々はそれらを履き違えているケースがある。好意から始まった関係が次第に安心に代わり、いつしか執着に行き着いてしまう関係の築き方はあまりにも利口じゃない。

人を愛することも、好意を抱いて其処に安心を求めることも、それらは決して「悪い」ものでもないと思うんだ。

執着の何が利口じゃないか。それは他人に自分のウェイトを掛けすぎてしまうことで己自身の気持ちや意志を見失ってしまうことが問題で、言い方を変えれば本来あるべき自分の意志を疎かにしてしまうこと。他者の都合や己の都合の範疇で自分の人生をより良く動かそうとしたところで、その不確かな物に寄りかかる事へのリスクが問われる。

いつの間にか、互いが慈しみ合える関係ではなく、自分の都合で動いてくれるという期待をを込めた一種の依存に近い関係性の築き方をしてしまう。

他人に執着する恐ろしさ。勿論、人は1人では生きていけることは出来ない。でもね、人間関係の中で確かなものはただ一つ「自分自身」だけなんだ。他人の中に生きる自分や他者の気持ちはあまりにも不透明で、不明確だ。不安定な場所に自分の大切な物を閉まっておくのは利口じゃないよ。

 

見失ってしまうことの恐ろしさ。大切な物を疎かにして失ってしまう苦しみ。不安定な場所に閉まっておいたそれらは些細な衝撃で崩れ落ちてしまうと壊れてしまうんだ。人の中に自分の感情の芽を多く育ててしまえば、相手の尺度で与えられる日光や水分によって簡単に枯れてしまう。あまり、他人の中に自分の心の芽を植え付けないでね。