コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

自己愛

「最近元気そうで、よかったよ」

誰かにそうやって声をかけられたことが、ありまして。人の優しさです。

時はあっという間に過ぎて八月に突入しました。いつものことのように時の流れは「あっ」という間で、過ぎ去った時間はぽっかりと穴が開いたように思います。何事もなかったかのように毎日が過ぎていきます。生活の中で大きな変化はなく、相変わらず頭の中はとっても忙しい日々です。それを言葉にしなければ、振り返ってみる日常は空白に塗り潰されて時間だけが淡々と過ぎていった結果でしかありません。貴方の暮らしはどうですか?

 

最近友人に、「最近性格が変わったね」と言われました。キャラという言葉を用いて。それは自己呈示欲の満たし方が変化したということなのでしょうか。古くからの友人には数年越しに顔を合わせた際、微笑みを浮かべながら「いつまでも変わらないね」と言われました。自己開示している証拠なのでしょう。

 

他人の評価はとても恐ろしいです。昔はもう少し自由に、多分好き勝手に言葉を並べることが出来ました。私という人間を知らない人々の世界の中で、彼らの中に自分という人格を新たに植えつけるように。とても心地のいい世界でした。

彼らの目に映る世界だけが私の全てでしかない。文章と写真。作り出される幻想と美味しい世界。

多くの人々に知られる機会が増えました。好きな言葉たちを発言しては、悲しい言葉を投げられることが増えました。少ない頭で考えだした答えは「あえて」と「逆に」という言葉を用いて自分の自己愛を深めることで。自分自身で自分を否定することで、誰かに否定されても痛くも痒くもないという防衛線を張ります。

 

誰かの求める自分になる必要なんて、きっとこれっぽっちもないかもしれないよね?求められてしまった以上は「こうでなくてはいけない」という強迫観念にかられてしまうね。人に求められたり、誰かと仲良くすることは本当に心地がいいよ。自分のせいで誰かが笑ってくれたり喜んでくれたら、もっと幸せだよね。いつまでも元気で明るくて、ずっと笑っていられたら、そんなにも幸せなことはないと思うよけどね。

本当に、そんな人に私はなってしまいたいと思う?いろんな人々と交友を得て、私はいつまでも元気な人で、自分の苦しみを露呈してしまえる場所でも、ずっとずっと元気な人でいたかった?ふざけて笑って、何も考えてないですって顔して生きてみたいと思う?

 

どんな場所にも、どんな人々の中にも介入してみたかった。自分が作り出した世界に閉じ凝るだけでは飽き足りず、様々な人々の世界に介入してみたかった。面白おかしく笑ってみたり、ふざけたり、自分の痛みさえもオブラートに包んで笑い飛ばしてみたかったね。でも、世界は100と0しかない。そこまで器用な人間ではない。どちらかにふり幅が向けば、どちらかはどうしても疎かになってしまう。全力で振れるふり幅で、だれかの求める自分を作り出して、いつだって自意識と自自己愛を満たすために溺れて息が上手くできないよ。

 

色んな物を欲するばかりに、不得意な世界にまで介入しすぎてしまったんだろうな。本当は窮屈で仕方がないはずなのに楽しさにかまけて、大切なもの(自分の得意とするもの)を手放してしまいがちだね。

 

自由の裏には、メリットもデメリットもあるよ。数えきれないほどの窮屈さと強迫観念と自己意識と向き合った時にぶつかる壁。事実としての自由に間違えはないけれど、それは思っていた以上に心地のいいものではない。自由を背負うだけの責任が問われることもある。