コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

疲れてる人が一人

仕事をしようという気持ちと怠惰な感情が犇めいてます。

 

友達の誘いを断って、遮光カーテンを閉め切ったクーラーのない高温の部屋で引きこもる。家にあるゆで卵を二つ茹でる。もちろん半熟だ。マヨネーズをかけて食べる。コレステロール祭り。お母さんに頼んで買ってきてもらうタバコとスーパーで安売りしているカレーパンとポテトチップス。

シャワーを浴びて身体をすっきりさせたところで、じんわりと身体はべたつきはじめる。不摂生な生活。朝方の四時頃はすっかり日が昇りひぐらしが寂し気に鳴き始める。無料エロ動画を見ながらオナニーに勤しみ疲れて眠りにつく。八時には起床して友人とラーメンを食べに行くという約束を決めた。日焼け止めを塗りたくって最低限の化粧を施してコンタクトを装着して出発だ。どんな話をしよう。上手く笑えるだろうか、会話に溶け込めるだろうか、さまざまなことを考える。起床は9時。支度をしようと身体を起こすが起き上がれない。目覚めは絶望だ。携帯を開いて友人に連絡をする。「ごめん 今日は行けない」びっくりマークをつけて元気を演出する。しばらくすると美味しそうなラーメンの写真。ツイッターを除けば楽しそうな二人。行けばよかったと後悔の念を抱きながら、食べたくもない卵をふたつ口に放り込んでタバコを吸う。

何を食べても胃は気持ち悪い。身体が食を欲しているわけではなくて、自分自身の意識が無意識的に食を欲しているようだ。タバコも最近は美味しくない。鬱陶しく感じるほどのサマーミュージックを聞いては、友達から送られてきた花火大会の写真と、飲み屋で多国籍の人々と楽しそうな時間を過ごす写真が送られてくる。「来週シンディーと鎌倉に行くから泊めてね」シンディーって誰だよ。なんでいきなりフランス人も乱入してくるんだよ。

 

死にたいですってあの人に言ってみたところで「インドに行くんだな」一点張りだ。私はマザーテレサみたいに無償の愛を振りまいて人々を慈しめるような心の持ち主じゃないね。死にたいという事実は変わらないし、その価値観を覆すためにインドの貧困地帯に行って、生きるとは?心の豊かさとは?という壮大なテーマを抱えてマイノリティに賞賛されるような立派な人間にはなれない。自分を蔑み、自宅に引きこもってパソコンの前で文章を書くだけで精いっぱいなんだから。

 

ツイッターを開けばみんなそれなりに自分の人生を豊かにしようともがいてる。悲しんでる人もいれば、楽しんでる人もいるね。素敵すぎる生活環境の中で苦しみに埋もれながらも己が己であるべきことを保とうとしていたり。社会というものに揉まれながら不安を抱いて、それでも恋人と幸せや怒りや悲しみを共有して誰かのためにと健気に美しくなとうという人も。自分の病気と闘いながら学ぶという意識をおざなりにすることなく、自身の精神の弱さに寄りかからないように、心で涙を流しながら生きてる子も。みんなそれぞれの人生がそこにはあって、それを閲覧者として毎日監視してる。羨んだり悪態をついたり悲しんだり、喜怒哀楽を込めて。

 

遊ぼうと言ったら答えてくれる友達がいる。見知らぬ外国人を連れて鎌倉に突撃しようとするバカもいる。ラーメンを食いに行こうという友達がいる。レコードのことをたくさん教えてくれる友達がいる。会いたいといえば時間を作って互いの感性を言葉にして噛みしめ合う友達がいる。悩みを抱えればてきとうという軽いスタンスを武器にして相談に乗ってくれる人がいる。私が思ってるよりも、ずっと多くの人々が案外身の回りに溢れていて、なにも蔑むようなことはないんですけど。

 

自分には関係ないって顔して政治を社会も他人もいろんなものをおざなりにして生きてきたおかげでき「君はびっくりするほど教養がないね」なんて言われる始末だよ。社会は安保法案で話は持ち切り?あの子はデモ活動に勤しんじゃってさ。戦争反対!戦争怖い!阿部ふざけんな!あーあーもう呆れちゃったわ。やだやだどの人もあの子もその子も右翼だ左翼だって言い始めちゃって。デモ行進するくらいの意志があるなら否定ばかりに目を向けて身を任せて便乗するんじゃなくて、自分の長所やいまなにが出来るか向き合ってから、小さいところから堅実的に社会を変えようとすればいいんじゃない?

どうもがいたところで社会のルールは変えられない。政治は国民のためじゃなく国のために動いてるだなんて誰かが言ってた。私たちがこの国で生きている以上はこの国のルールに従ったうえで、それぞれの意見や意志をどういった形で訴えかけていくかという話なのでは~。出来ることは限られているかもしれないけど、個々人にしかできないことも沢山あって、同時に自分の長所を生かしながら訴えかけていくべきなのでは。決められてしまったことを根本から覆すことなんて微力な私たちにできないでしょう?それでも小さなところから目を向けて打開策を見出していくしかないのでは~。

意見を述べるのは自由であって、何かを考えて自分なりの答えを見出すことは大切なことだと思いますとも。じゃあ、その意志を訴えかける手段や自分が今何をすべきかという方法なんですよ。デモだってなんだって?それは集団という一致団結の意識に便乗しているだけで事実はなにも覆せないよ。「やめろー!反対だー!」って騒いだところで、暴動を起こしたところで社会が決めてしまったルールを変えられるの?社会を変えようとしているより同じ志を持つ人々という勘違いを振りかざして他人と一致団結したいだけにしか見えなくもないわ。子どもが嫌なことを嫌だよー!って泣き喚いてる様と変わりわないよ。

 

あー。あれがやだこれがやだなんて猿でも言えるんだよ。そうじゃなくて考える頭があるんだから、もっと別の方向性で何とかできるのでは?という選択肢を増やしてみてもいいのでは?戦争反対?そりゃそうだよな。戦争賛成?おー!宣戦布告かい?よくやるねー。

 

な~に 言ってんだか。ばっかじゃね~の。ご飯食べよ~