コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

会話


昨日は休日にもかかわらず、アルバイトの一件で、早起きをしてさいたまスーパーアリーナに向かわなければならなかった。道中は職場の人々数人と共に現地へ向かう形で。

ここで話は少しずれて。私は今までずっと、本当に誰もが思っている以上に人と話すということを怠ってきた。それは、機会が少なかったという表現の仕方を選んだ方が良いかもしれない。16歳で社会から離脱し、5〜6年まともに集団の中で生きることなく、目を見て、相手のリズムを汲み取って言葉を交わすことはごく僅かな特定の人々だけ。
誰かと会話をする機会が設けられる場はただ一つソーシャルネットワークSNSサイトで毎日めまぐるしく色んな人と会話をした。姿形が見えない、電波を通して伝達される声色だけで相手のリズムや呼吸を汲み取って会話をする毎日。インターネットには全国全世界の人間が存在していて、その数の多さに圧倒されるあまり一人一人が其処に地に足をつけて息しているのかどうかさえ曖昧になる。
それらは、ただ何処とへも行き着かずに死んでいく言葉を吐いては捨てて、互いの空虚で隙間風の吹くような時間を埋めているだけに過ぎなくて。
次第に人が個である認識が薄れていき、機械から聞こえる音声と機械に向かって発する言葉と、その双方はどちらも本当に存在しないように感じてしまう。その会話はまるで咀嚼しようとも噛みごたえがなく、口の中ですぐに溶けてすぐに消えてしまう綿飴のようだよ。

話を戻せば、スーパーアリーナへ向かう道中。職場の人々とたわいもない話をしながら現地へ向った。相手の目線や動作やリズム。言いそびれた言葉たちが拾われることなく消えて行ったり、誰かの言葉に頷いてみたり。そこに人が会話をしている場所がきちんと存在してる。人が存在して、互いのリズムを計りながら自分の言葉を漏らしていく。目で見て話して、感じて触れられて、相手を認識できる度合いで言葉の意識は左右する。其処に生きてる存在する人々と交わす言葉は、たわいもない会話であろうと、なんであろうと、生きてる人々と話をするということはこんなにも心地の良い感覚なんだと実感をした。相手にとって、私は当たり前のように此処に存在していることを肯定されているからこそ、インターネットで向けられる言葉の色とは違う色をしている。本当はそれが一番きもちいい色だということ。