コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

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桜はいつだって息が詰まるほど美しい。

だからこそ、人々はその姿に一喜一憂する。目を背けて悪態をついたり、輝かしい思いを込めて見つめてみたり。

 

数年前の私は春が来ることをひたすらに恐れていた。

高校一年生の冬。私は高校生を離脱した。一年はあっという間で短い高校生活だった。さまざまな出会いや別れに時の流れはけたたましい音を立てて、余韻に浸ることも出来ず過去に吸い込まれていく。

新しい年を迎え、春の始まりや輝きの季節で。周りの同級生たちは夢や希望にあふれて、当たり前のように進級を経て新しい生活に心を躍らせる。私だけが置いてけぼりにされているようで。目を伏せて、気負いしながら下を向いて歩いていた。社会から離脱してしまった劣等感や、どこにも所属していないという不安感。学校という組織から身を投げ出された私を公的に守ってくれるものなど何ひとつそこにはない。16歳の未熟な私にとって現実は残酷だった。ひたすらに打ちひしがれながら、見えない何かを否定し反発を繰り返すことでしか行き場のない感情を消化でできなかったのだろう。

 

22歳のいま。当時の私は自分が22歳まで生きているかどうかも曖昧なくらいに不安定だった。それはきっと腕を切ることや自殺未遂を行うことが、変な言い方かもしれないが許されていた証拠なのかもしれない。

22歳になった私は自分を傷つけることや、死に追いやることが許されない環境下におかれている。それはいい意味でも悪い意味でもだ。昔では想像もつかなかったことを考えるようになったし、それは成長でもあり一種の衰退に似た何かでもあると思う。

ただひとつ、これは自分の人生に置いて大きくメリットを及ぼしたことは、今になっていろんな物事を少しずつ許せていること。それは人や文化に対して広義的にさまざまなことを受け入れることができる。そのうちのひとつとして、私はいま春を愛せている。伏し目がちに下を向いて歩くことなく、燦々と光る太陽が眩しい空を見上げながら桜の木の揺らぎに心を委ねられる。新しい季節の始まりとともに、終わりや始まりを迎えるそれぞれの人々らの人生を目の当たりにしては、ぬるい物語を眺めているように心地のいい気持になるんだ。そうやって少しずつ、認められなかった世界や物事を咀嚼して、これからも年をとっていけたらとてもすてきだ。