コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

ツイッターをやめてインスタグラムもアカウントを消した。だからと言ってどうってことはないんだけど。インターネットサービスから姿を消してしまおうと思った。其処に意味を感じれなくなった。最初から意味なんてなかったのかもしれないけれど。
友達にお別れのメールを送った。電話やメールの着信音が聞こえた。その心配や愛情や安心は全て私が仕向けたことでしかないのに、そうすることでしか誰かの愛情を確かめることができないのは愚かで哀れでしかないよ。

家族も恋人も友達もとても大切だ。その真意は未だにうまく説明できないもので、大切なものを壊したくなる。手放したくなる。何かも全て捨ててしまったら自分の周りには何も無くなってしまう。途方に暮れて、いつか悲しみも寂しさも全て忘れてしまえるような気がした。
でも、そう簡単には壊せない。離れようとすれば必然的に引き寄せているようなもので。引き寄せられたそれに満たされては同じことの繰り返しだ。

本当に大切なものを、何一つ大切にすることができない。いつだって自分のことで精一杯で上手く人と一緒に生きることが出来ない。私は優しくなんかない。




今の私には何が本当に必要で、何が不必要なのか全然わからないけれども、あまり深く考える必要もない。
閉鎖病棟に入院していたあの頃を思い出す。インターネットも何もかもなかったあの時、与えられたものはペンと紙と本と音楽しかなくて。貪るようにずっと本を読んで音楽を聴いていた。たまに気が向けばペンを取って文章を書いたり。余計な情報が入ってくることはなく、どっぷりと本の中に淡々と沈み込んでいく。

何が余計なもので、何が必要なものかわからない。ただ一つ思うことは、いろんなものを手に入れすぎた。中途半端に求めた愛情も寂しさを拭うために手に入れた関係性さえも、背負いきれずにいっぱいいっぱいになって崩れ落ちそうになる。向かってくるものすべてを背負いこんで生きている顔になってた。持ちきれなくなって、進んでいるうちにいくつもの落し物をした。それを素知らぬ顔で気づかぬふりをしていたんだ。

恋だとか愛だとか友愛だとか言って、ぬるま湯に浸かって安心した気になっていただけだった。
何一つ責任を持って大切にすることができないのに、何かから逃れるように、救われるような気になって引き寄せていた。ごめんなさい。ありがとう。
暖かくて、とても気持ちよかったよ。

私はずっともっと子供だから、今は自分のことに専念して、一人の人間としてしっかりと生きるべきなんだと思う。一度浸かってしまったこのぬるま湯から這い出るのはとても難しい。拭い捨てるように全てを手放してしまおうとも思う。勢いだけで突き進んで、大切なものを壊して、どうでもいい物ばかりを寄せ集めて大切な時間を無駄に浪費する繰り返しだよ。ダメだよ。地に足付けて前を見て。ダメだったその時は、そっと死と向き合ってみるのもいいと思うよ。それもまた人生の選択の一つだよ。



ねえ、私は貴方じゃないし、貴方は私じゃないよ。貴方が人の言葉に耳を傾けられないように、私も貴方の言葉に耳を傾けられない時があります。お互い様だ。もう大丈夫。人は誰かと同じ方向を向いて一緒に歩いていくことはすごく難しいことなんだよ。自分は未熟で不甲斐ない人間だから上手く隣を歩くことができなかった。一人で歩くことさえ覚束ない。歩く練習から始めてみることにしてみたよ。
馬鹿にしないで、私を見据えないで、否定しないで。

ねえ、大丈夫だよ。後悔はしない。後悔は人生の中で一番嫌いだよ。どんな結果だとしても、そこに何も得られなかったことなんてないんだ。無駄じゃない。傷つく事も、心が抉られることも、何度もあった。それでも多くのものを学び、前に進む力を得た。


私の得てきた時間は無駄じゃない。今の今まで全てのことは、重要な時間の経過なんだよ。


死も生も大切なんだよ。私にとって