コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

宝くじが当たらなくて鬱になる

1人で自分に突っ込み入れてさ、1人で萎えてる毎日だよね。しょーもないなって考えながら、自堕落とも言い切れない日常と、煮え切らない感情を抱えて生きてるよ。

あの子は元気かな?とか、あの子は真面目になったのかな?とか、親戚のおばさんみたいなことを考えたり。小学生から中学生まで同じ学校に通っていた男子を心の中で殺したり。何もなく過ぎて行く日々の小さな幸せも見つけられずに、消化してる。人生なんてあっという間だし、これからなんてどんどん猛スピードで時間が経過して行くだろうな、嫌なこっちゃ。自分のリズムや波をうまい具合に維持するスキルが足りないから、てんてこまいになっちゃうね。今ってまさにそんな感じなの。

自分で自分にルールを作って、不自由ですよってプラカード持ちながら歩いてる気分だな。本当はもっと自由でいていいのにさ。何をそんなに窮屈そうな顔してるのよ!って、また自分に突っ込み入れちゃうの。最近は、キモいとか、ウザいとか、ヤバイしか言ってない。新言語に感謝御礼って感じだよね。まぢで

日本には四季っていうものがあるんだから、その季節を彩る温度とか香り、季語にあたるものを楽しむ余裕が欲しいのだよ。一年はあっという間なのに、大切なものや、必要な着眼点を全て見て見ぬ振りしてるから淡々と事実も過ぎて行くのかな?

最近は、度々自分をオブラートに包みながら、日々の悩みを知らない人に打ち明けてみてるよ。ただ帰ってくる答えは、常に一方通行。豪速球ではないけど、スピードが遅過ぎてキャッチする前に転がって見えなくなってる答え。いま抱えてる悩みに対する答えも解決策も見えいるのか定かではないし、正直運命に任せるしかねーな!みたいなところがある。宝くじが当たらなくて鬱になってるようなもんなんだ。今の気分も事実も。どうしたら宝くじが当たるでしょうか?!みたいなことを他人に相談して、まっ気長に待つしかないよねっていう答えを投げられてる感じ。待てど暮らせど、進んだ分リセットボタンを押すことの繰り返し。

停滞してるのか、衰退してるのか、どちらか二つの選択肢に縛られてる今だね。本当は、ピンクのスーツ着て、やる気元気いわきになりたい。でも私、ピンクって似合わないんだよね〜

 

そんな暮らしを折り重ねて行ったら、積み重なったオブラートで何も聞こえなくなってたよ。他人の言葉が。届かないし、届けるすべも絶たれましたな、という気分。発信する言葉も、受け取る言葉も、どちらか一方通行ばかりになってるんだ。行き場をなくした言葉たちは、路頭に迷って泣いてるかな?言葉たちとか、感情とか?伝えたい想いとか?

 

まあ、いつでも私は答えが欲しいよね。これからもずっとさ。正解が欲しいんじゃなくて、結果と答えが欲しいの。別に間違ってようが、正解であろうが、どちらでもいい。だから焦ってるって言われるのかな?難しいなって言葉でも片付けたくないし、口癖になってるセリフだ。

なかなか上手くいかないよ。上手くやり様にも、宝くじだもん。当たれ!って願えば願うほど、泥沼にはまって行く感じ。もしやこれはギャンブルなのでは?とさえ感じます。心という投資だけ暴落して、結果が全然見えてこない。いつしかその財産も底をつきて、死んじゃうのかな?って考えちゃう。生きてりゃハッピーっていう言葉の重みさえ忘れちゃった。

ゴールの見えない海で泳ぎ続けてるよ。息継ぎがうまくできないから、25メートルプールも断念しちゃうね。今私が泳いでるプールって、いったい何メートルあるの?その距離が短ろうと、水面に顔突っ込んで犬かきしてたら、いつまでたっても折り返しのターンは繰り出せないし、金メダルも取れません。

 

早く宝くじ当たって、ハッピーになりたい。

不幸という名のオナニーより、幸福という名のセックスを選ぶ

だもうやだ!死ねって思うことは、腐る程ある。でも私は前に進むことをやめないし、前に進めるだけの環境も材料も揃ってる。それに対して指を加えて羨む人間だっているでしょう?ふざけんじゃねぇよ。これは恵まれて掴んだ幸せでも、運でも、なんでもない。苦しくても足掻くことを忘れなかった努力の結果だ。ただひたすら不幸な顔して時間が進む中で、いつの間にか当たり前に手に入れたものじゃない。

いつだって学んでる、考えてる、それはどんな時も。誰だって腐る時も、死にたい時も、「もう限界だ」ってすべての壁にぶち当たることがある。そういうときは休憩したっていいよ。立ち止まることは大事。

でも、そこで終わっれしまったら、汚くなって腐っていくだけ。泥沼の中でも、足掻くことの微かな光を頭の片隅に置いておくこと。きっと自分のその積み重ねが、今の結果なんだと思うよ。てめぇだけ勝手に幸せになって、他人に好き勝手言ってんじゃねえとか、言われる筋合いはない。ダサいかもしれないけど、たくさんの血と涙を流してきた。そのダサい事実をいまはかっこい現実にしてる。

 

だから、私は後退することしか知らない人間をふるいにかけて、前に進む。諦めることも不幸になることもすごい簡単なんだよ。事実わたしも不幸の怠惰に甘えて、いろんなことを簡単に捨てた。仕事もすぐに辞めたり、些細なことですぐに大声を出して泣いた。あの頃自分を傷つけてきた人間も、もしかしたら自分はいまそちら側の人間として生きてるのかもしれない。

 

何が正しいなんて知らねぇよ。だから私は、自分の宗教と正しさを抱きしめて生きてる。だから嫌いなやつは嫌いだし、うぜぇやつはうぜぇ。

だからお前の生きてる世界もお前も腐ってると思う。ただそれは、腐ってるだけの事実で終わるとは限らない。誰だって綺麗でいい匂いがするものが好き。汚くて醜いものが美しなんて、心が終わってる人間のセリフなら、そんなの物事に都合よく落とし所をつけてるだけなんじゃねぇのかな?

 

私はもう、腕を切らないし、薬もたくさん飲まない。そんなことをして世界が激変するほど、心は幼くない。でも、そういった過去を無駄にしないし。腕がボロボロなことも誇ってるよ。薬をたくさん飲んでたくさんの人を悲しませたことも、入院費や治療費で苦労をかけたことも、いまの自分が存在するための勉強だと思ってる。

昔、本屋のアルバイトの面接で知らないおばさんに言われた。無駄な苦労をしてるのねって。いまでもそのセリフを忘れないし、本当に素敵な言葉をもらった。だからって私は「他人に期待しない」という考え方を曲げようと思う気持ちは失いたくない。

世の中には本当に辛辣なやつも、サイコパスみたいなやつも、自分のことばっかり考えてる人間ばっかり。私だってその一人だし。でも身の回りにある温度のある人々に対して、これまでより少しは期待をしてみようと思うよ。

 

これまでもこれからも、耳にタコができるほど言ってやるよ。あたしは変化したし、これからも変わり続ける。リスカして、血まみれになって、何もかも簡単に捨ててきた過去を抱きしめながら、いろんなものを自分の愛情で包み込みたい。そして全力で魔の前のことをタスクをクリアしてやるよ。

なあ、だからあたしはてめぇが嫌いなんだ。腐ったツラして、ゴールの見えない不幸で気持ちよくオナニーしてるてめぇがよ。そんなことしてたらいつまでたっても最高のセックスなんてできない。

私の人生はオナニーばっかりだった。本当に。一人で勝手によがって、自分を慰めるのって超簡単なんだよ。他人に気を使う必要もないし、手軽に気持ちよくなれるから。でもセックスにはどうしても勝てない。まんこにちんこを入れる感覚も、誰かの吐息や感触もすべて一人じゃ埋められない。だから、私はオナニーをやめた。不幸という名のオナニーより、幸福とうい名のセックスを選ぶ。だって気持ちいいし、寂しくないし、何よりもいろんな発見や学びがそこにあるから。

学ぶこと、考えることを辞めたら人間終わりだよ。なあ?聞いてるか?てめぇは自分の不幸のオナニーで、頭もぶっ壊れたのか?ぶっ壊れたなりに考えろよ。あたしたちは、畜生じゃない。良いのか、悪いのか、わかりやすく意志伝達できる言葉や考える頭と多彩な感情を与えられた。それを使わないなんてもったいないだろ。

だからさ、わかる?あたしはバカが嫌いなんだよ。バカで不幸でブスって最悪じゃね?そういう人に対して私は堂々というよ、すげぇ嫌いだわ。チャンスなんて与えない。そんな余地を与えるほど、私は暇じゃないんだ。

追いついてこいよ。追いつけ来れるもんなら。他人にすがってんじゃねぇよ。自分の時間軸で他人を操作しようとするんじゃねぇよ。みんな各々のスピードで生きてる。だから誰かのために、そのスピードを止めるためには、大きな代償が必要だ。人間みんなバカじゃない。自分が損することはしたくない。わざわざ追わなくていい怪我で、傷ついきたくねぇだろ。だから、私はてめぇのスピードに軸を合わせねぇ。

勝手にやってくれ。それでいつか、また会おう。いまのてめぇに期待はしてねぇし、ダサいしキモいって感想しか出てこない。てめぇの不幸の責任も、そのカスでさえこっちは目にとめたくない。

だから早く幸せになって、一緒の最高のセックスしような。

待ってないよ。てめぇがここにくるとき、私はずっと先を歩いてるかもしれない。もう見えない場所にいて、巡り会えないかもしれない。それでも明日のことはわからないし、物事や人間なんてだいたい不確定でしょ?

だから、さよならじゃなくて、それが残酷な響でも「またね」で締めくくるよ。

印象操作

これまで長い間、手探りで化粧をし続けてきた。自分の中で何かを否定したり、肯定したり、それらを埋め合わせるように色を塗りたくってたように感じる。

最近になって、少しずつ基本的なことを学ぶように努めてみた。何をどこに塗るのか?全体のバランスや配色の意識など、どこまで手を施すのか。差し引きを繰り返すことで、顔が驚くほど変わったように思う。少しのさじ加減で、こんなにも自然な仕上がりになるんだと感心しちゃったよ。

服も同じこと。ある物を適当に合わせて、その日の心を映し出すかのように。気持ちが沈めば沈むほど、身に付けるものや装いのバランスは歪になって目を逸らしてばかり。今ではどんな時でも、些細なバランスに注力して服を選ぶようになった。何年も買わなかった服も、手に入れる機会が増えたね。良いものを手に入れると、気持ちが高揚するんだ。不思議だな

 

化粧や服に対する熱量の変化から、ふと昔のことを思い出した。被服心理学について。化粧や装いによって、人の心理状態に与える影響を学んでいた。身に付ける物すべては、その人の地位や名誉など、個人を端的に表現する最大限の材料だ。自己のアイデンティティを主張するための大事なアイテム。深掘りすればするほど、圧倒されら学問なんだよ。

今まさに、私は被服心理学の被験者になっているかのように、日々感じる。どれだけ心が泥水のようになっても、綺麗に身なりを整えて外に出かければ、ほんの一瞬でも気持ちの切り替えをすることが出来る。私の心に、大きな影響を与えている。

 

人に見られると言うこと、自己のアイデンティティをいとも簡単に操作できると言うこと。恐ろしくも、魅力的なものだよね。権威ある先生の言葉であるように、カメレオン表皮なんて良く言ったものだ。

他社はの印象を簡単に操作できる。

 

お洒落をすると言う意味でも、自分の魅力を引き立てる物としても、もちろん楽しみを与えてくれる。ただその根本には、誰かを騙すことが出来る力を持っているんだなと考えると、もっと面白みを感じる。だから好きなんだよね。