大丈夫だよを背負って25年
インターネットに依存しない生活は気持ちいいけど、会社で毎日ネット依存状態。
誰かの無闇矢鱈な発言も、攻撃的な言葉も、今はすべて心に刺さってる。私を保つための材料として、1番に不必要なものがSNSかもしれない。
毎日をちゃんと生きることはできないけど、少しずつ余裕を有効活用して、日々を回転させ続けることはできる。ただし、それは脆いのがネックだな。
少しの刺激で、その回転が鈍くなる。止まることはないにせよ、上質な油をささないといつか停止してしまうデメリットは付き物。
その刺激として大きなポイントになるのが、SNS。もしくはホルモンバランスによる些細な変化で、自分の動力が失わられること。
どちらにせよ、うまく付き合えればスムーズな稼働に繋げられる。が、しかし難しい。そのスキルが不足し過ぎてるよね。
とても眠い。いますぐ会社の地下にある喫煙所の冷たいアスファルトに横たわりたい。それでもあと数分立てば仕事モードに頭を切り替える。
家に帰れば、可愛い毛むくじゃらの生き物と一番大切なものが暖かい空気を作っている。それだけで、いいじゃないか?
何もないより、ずっとあるだよ。
大丈夫だよ、を言い続けて25年経った。その言葉が古くなるときは来るのか?無事に、瑞々しさを帯びて26年を迎えることはできるか?
今日も今日とて
五月蝿いノイズ
最近、ツイッターでよく見かける自殺祈祷や自称行為などの惨劇。
まだ15〜16歳の女の子たちがSNSを使って悲鳴をあげてる。救いのない闇に覆われて、逃げ場のない真っ暗な場所で承認欲求を満たしてる。でもそんなものは一過性に過ぎないので、本当の悲しみは1人で歯を食いしばってるんだろうな…と腕の傷を見て思う。
私自身だって、
腕を切ったり
何百錠も薬を飲んだり
パニックを起こして大暴れしたり
胃袋がはち切れるほどの飯を食ったり
1ヶ月近く絶食したり
彼女たちと何も変わらない時間を過ごしてきた。だから今、それを蔑むような目で見るべきじゃないんだけどね。まだ上手く過去の不安や悲しみと仲良くできないから、目を覆いたくなることばかりだな。
知らんけど、そういったメンヘラスタイルを貫く若き少女たちだって、いつかは大人になっていく時間の経過とともに落ち着いてくるんだ。それを高みの見物をするように第三者が物申しても、うるさいノイズにしか聞こえない。
だからここに私が書いてる言葉も、誰かにとっては鬱陶しいノイズなんだ。
まあ、亀川千代だってノイズをアートに変えちゃうじゃん?だからそういうことなのかな。
誰かが差し伸べる身勝手な言葉は、私も全部蹴散らしてたな。
大丈夫?
少しずつ良くなるよ
治療しよう
気の持ちようだね
心が弱いんだ
とかね、だんだん優しい言葉も棘のように感じたり。他人の心無い一言が、全然希死念慮への直行便にもなったよな。
そんな具合にたくさん回り道をしてきたけど、いまでは普通に毎日働いて、健康的にご飯を食べて、眠って、健やかに生きてるよ。
結果オーライだから、私の過去がちょっとした寄り道とか回り道だとは思わない。正しく苦しんで、正しくもがいた。
だから今になって、他人が笑うようにいう
「時間の無駄だったね」
「腕なんか切らなきゃよかったのにね」
「くだらいね」
っていう過去を蔑む言葉は、腹立つんだ。
ちゃんと向き合って、ちゃんと努力して、自分の力や周りの人間がたくさん苦労して築いた今なんだよ。それを何も知らない人が好き勝手にいうのは、私の大切な人も一緒にバカにしてるのと同じことだから。
過去だって現在だって未来だって、無駄なことは1つもない。少し形がいびつであれど、成長してる証拠だと思う。
たくさんの他人を泣かせて
傷つけて
自分も周りもダメにしてきたこれまでは、
別に美化するほど良いものじゃない。今が幸せだからって、それを全部知らないふりするつもりはない。
ちゃんと弔って、大事にいつも持ってるよ。
それでいて今ってものがあるんだけど、その今に至るまで、どういう心境の変化があったの?なんて聞いてくるやつがいる。
心境の変化なんてもので一瞬で変わるくらいなら、みんなハッピーになってるよ。ふざけんな
私が今この場所に立ってるのは、たった少しの刺激による心境の変化じゃない。テメェらにはわかんねぇ苦しみとたくさん戦ってきた結果だから。
いろんな人と話した
いろんな先生にあった
いろんな人を泣かせた
自分の心も体も傷つけた
いろんな人に泣かされた
大切なものをたくさん放棄してきた
ダメダメの積み重ねで、やっとここまで登りつめたんだよ。別に他人が羨むような人生を送ってるわけじゃない。でも、自分が確実に幸せだと思えるものを握りしめてる。
だから、そこに落ち着いた時、20代前後の女の子たちが長く姿を見て、どっかで哀れだと思っちゃうのは性格の悪さだな。
人は変わるよ。変わろうと思えば、変われる。ただ闇雲に動いても仕方ないし、土台がすっからかんじゃ、どうせすぐに崩れる。
壊したり、立て直したら、壊したり、その繰り返しの中でどれほど掴み取れるか?だと思うんだよ。
本質の元気を手に入れられるかどうかって
でもこういうのってさ、いま悩んでる当事者が聞いたら鬱陶しいんだろうな。はあ?綺麗事かよ?って、
綺麗事じゃねーよ、バーカ
まあ、世の中にはいろんな人がいるから、自分の正しさをみんな持ってるし。
届かない言葉なんて当たり前なんだよね。
いろんなことを省略したくないけど、高みの見物をする私から言わせてみれば
変わろうとしない奴は変わらねえし、変わろうとする本当に変われるよ。
私は絶対に前者がいい。後者は絶対に嫌だ。
そりゃたまには、昔の名残で
死にてえ
腕切りてえ
仕事辞めてえ
もうダメ
ってなるよ。
でも大ゴケするほど傷が深いわけでもないから、結構ケロっとしてる。
みんないろんな悩みを抱えてるけど、それをマイナスに考えるのはお好きにどうぞ。
ただ本当にヤベェ奴になりてぇか、なりたくねぇかだよ。
本当にヤベェ奴は、もう人間じゃない。可哀想だけど、多くの人が目を覆って突き放そうとする。そこまで行きてぇか?
私はクリーチャーになりたくないよ。あの閉鎖病棟でみたウンコ臭い奴らと同類にはなりたくないって思った。
下を見たらきりがないし、上を見てもキリがない。でも本当の最底辺を見たら、ゾッとする世界がそこには広がってる。
いろんな尺度や物の見方による悲しみや苦しみ、憤りがあるよ。ただどっかで、そういうの騙し騙しやってるから今も歩いてるんだよ。
止まってると思ってる奴も、歩いてるんだよ多分な。
ただ問題なのは、その先に求めるゴールが馬鹿でかい壁だったりするから、反動がデカくなる。
結構、心病んでる人が望んでる世界って
馬鹿じゃねえ?
ってくらい、お前の立ち位置で次のステップに対する望みデカすぎねえか?っていうこと多い。だから失望したり、死にたくなったりするんだよ。
自分が嫌で悲しくて、哀れなことは知ってるくせに、案外自分がどこまで力を出せるのか?そのエネルギー量をわかってない。だから期待して、ぶち壊れる。
自分の身の丈に合ってない望みを抱える奴ほど、その反動に押しつぶされやすいよね。
常に自分を捉えているようで、全く認知できてない人が多いのでは?と思う。だから力配分とかわからなくて、ぶっ倒れるんだよ心が。
ただ決定的に最悪なのは、自己を正しく認知する能力に欠けるほど心が疲弊してるケースが多いこと。健康じゃないと、いろんなものがクリアになってこないことってたくさんあるでしょ?
じゃあ、どうしたら物事がクリアに見えるかって?それはヤバい奴になりたいか、ヤバい奴になりたくないか、ってところに戻る。
一番ダメなのが中途半端に綺麗で、中途半端に狂ってる奴。ただいつか人間は心の疲弊が積み重なって本当に起動しなくなることがある。その真実を知ってるかどうか?って結構大事なんじゃないのかな。
壊れるまで今の蜜を吸い続けて、ヤバい奴になるのか?ヤバい奴から免れられるのか?
そもそもヤバい奴に一歩足を踏み入れてるときは、なかなか気付かないし、動けないよね。そこで刺激を与えてくれるのが目の前に立ってる第三者なんだよ。
インターネットじゃダメ。現実にいる温度がある人間だ。その摩擦によって意外と気づけることもあるでしょ?ただそれは気づくだけで、変えてくれるわけじゃない。
結局わかるのはテメェ自身だから。他人というスパイスで、どう自分を美味しく味付けできるか?そのセンスがあるかどうかで、
「生きる・死ぬ」の取捨選択
過去の私は、死に近い場所で生きる安心感を持っていました。しかし今の私は生きることに近い場所で魂を燃やしています。
人間様と畜生を比較すると、「心」という作用に大幅な違いがあります。動物は本能のままに生きることに闘志を抱きますが、人間は何十種にも例えられよう感情で「生きる・死ぬ」を故意に選択することができるでしょう。
この「生きる・死ぬ」の選択肢にも個人差があり、
- 生きることへの選択
- 死ぬことへの選択
- 生きること、死ぬこと双方の選択
大きく分けると、この3つに区別されます。
1.生きることへの選択
生きるこのみ選択する人間にとって、死ぬことは生理現象・不慮の事故など、止む得ない状況によって発生する概念とみなされます。自ら死を選ぶ概念は、彼らには根付いていません。
2.死ぬことへの選択
死ぬことのみ選択する人間にとって、生きることは「苦しい」という概念に繋がります。彼らは「生きること」に対峙しているといっても、過言ではないでしょう。また、自ら生きる道を選ぶ概念は根付いていません。
3.生きること、死ぬこと双方の選択
生きる・死ぬ、双方の選択を持っている人間は、その時々によってカメレオンのように感情の動きを示します。しかし両方の感情が同じ時に達する可能性は低いと言えるでしょう。稀に2つの感情が誘発されますが、その圧力から死への比重が大きくなります。
このように人間を大きく分けると、上記3種に分類できると考えましょう。
では、これらの人間はこの世に産み落とされると同時に、どのような分岐点から3つの方向に枝分かれしていくのでしょうか。
まず、この世に産み落とされた赤ん坊の段階では、人間特有の能動的な意識は存在しません。 そのため本能として「生きる力」が作用します。しかし成長の経過とともも、アイデンティティの形成によって、心の種類が膨大な量に達していき、「生きる・死ぬ」の取捨選択スキルを身につけていくのです。
※補足
アイデンティンティ・心の種類には、個人差によって大小が異なります。これは他者との関わりによって、大きく関係していきます。こちらについては、詳しく後術していきましょう。
では、なぜ生きる人間・死ぬ人間・生きる死ぬのどちらも選択する人間、が存在するのか。これは私たちの生きる社会が大きく関係しています。
そもそも何故「生きる・死ぬ」の選択に関する概念が存在するのか、それは人間のパーソナリティが大きく関係しいます。これは人間同士のコミニュケーション(社会)によって、大きく左右されていくでしょう。その社会でどう動くかによって、生きること・死ぬことの概念は容易に見出すことができてしまうのです。
そこで重要なのは他者との意思疎通によって起こるアクションです。そのアクションによって、
- どう向き合い
- どのような形に変えて
- 吸収を得るか
これらが「生きる・死ぬ」ことへの概念に、大きく関係していくでしょう。
こればかりは個人の感情によって、向き合い方・形・吸収力は多種多様になります。そのため「こうしたほうがいい」と言われてるような、世に出回る定説で全ての人が納得のいく答えを見出せるわけではありません。
ここからは、私自身の体験から得た「死ぬことの希望から生きることへの闘志に変わるための変化」についてご紹介していきましょう。