コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

腕をちぎりたい

現在の時刻は午前10時06分。

本来なら中央線の人混みから解放されて、新宿駅の山手線ホームで代々木駅まで向かうところだろうな。不機嫌な顔をぶら下げながら「仕事行きたくねえな」とか、この車内にいる6割の人間が考えてそうなことを唱えて仕事に向かう。「おはようございます」って元気な声でみんなに挨拶するも、どこかで人の顔色伺いながら、ずっと何かに怯えてるんだ。

 

でもワタシが見てる景色は、ゴミ箱から溢れたティッシュと経血がついたシーツ、洗濯しはずなのに涎のシミがついた枕カバーと、冷えた部屋でスープが固形になってるコンビニで買った蕎麦の残飯。本来なら職場に向かう途中で煙草を吸っていたはずなのに、いま自宅の布団にくるまりながらこうして文章を書いてる。どうして平日の昼間にワタシは自宅にいると思う?ずる休みしたんだよ。もっと嫌な言葉を用意するのであれば「仕事をサボった」って字面でもっと自分を強く傷つけることができるよ。

ここ数日間、風邪を引いていたんだ。喉の調子も悪くて、生理も重なってしまい、心も体も万全じゃないからさ、思うように動かない頭と心にイライラしていた。体調不良で仕事を休んでもまったく体も心も全然休めなかったよ。

 

目が冷めた時には携帯の充電が切れていて、時計を見ると電車に乗ってる時間だった。ここで一本会社に電話して、「体調が悪いので少し出勤が遅れます」とでも言えばよかったね。口から出た台詞は「まだ風邪のほうが本調子ではないため、もう1日お休みをいただけると幸いです」なんて、すらすらと口から休むための嘘が出てきたよ。上司も電話越しで「無理しやんでな」って癖の強い関西弁で心配そうな声を出しながら労わる声をかけてくれたよ。本当は誰かに労ってもらえるような人間じゃない。

 

どこかで誰かに「ああ、この人はやっぱりダメだった」っていつもの言葉が頭の中を駆け巡ってる。あんなに頑張ってたけど君はやっぱりだらしないから、こうやって未だに落ちぶれてしまうんだねって、呆れた顔で見られてる気がする。見知った顔がさ、したれ顔で「またインターネットで悲しいアピールをしてるの?そうやってまた腐って行くの?」って言ってるんだ。過去の苦い思い出に心がつっかえて上手く前に進めないのが通用するのは、10代までなんだよ。

人の言葉も視線もすべて怖いね。どうして怖いと思う?自分が諸悪の根源を作り出してるからだよ。どうしたらいいか知ってるはずなんだ。しっかりと前を見て、正しく歩き続ければいいんだよ。もっと必死になって、目の前の物事を掴み取るために歩き続ければいい。ただそれだけで今よりっと状況は良くなる。わかってるはずなのに動けないのは正真正銘のクズで怠け者だからだ。まだ本当の苦しみや、生きることへの必死さを知らないからだ。

 

ああああ、こんなこと言ってクソメンヘラにだけはなりたくねえよ。好きな男ができて、結婚とかそう言う感情をはじめて真剣に意識して、最高に気持ちのいいセックスをしながら二人で「俺ら超最高じゃん」とか言い合って少し苦笑いしつつも、愛してるって言い続けて本当は死にたい。仕事もクソ頑張って、苦手な上司に作り笑いを浮かべながら「辛いのに仕事してるあたしゲロかわいいな」って叫び続けながら生きたい。人並みの人生を送るのは尋常ないくらい難しいけど、好きな男とワタシは幸せになりまたいはずなのに、なんでこんなところで燻ってる?死にてぇじゃなくて殺すって気持ちでずっと生きてきたじゃん。人を恨んだり憎んだりを繰り返しながら、幸福になることが最大の復讐だと思って歩き続けてきたよ。

人並みの幸せを掴み取るのは本当に難しいことなんだよ。みんな当たり前の顔して生きてるけど、その中で努力をしながら歩いてる。好きな男と一緒にいるのでさえ「当たり前」なんて言葉は一生かけても通用しないんだよ。だから絶対に相手へあぐらをかいちゃいけない。自分の人生にも他人にもあぐらを本当はかいちゃいけないのに

 

どんなに踠いても、ワタシは100%の被害者にも加害者にもなれない。大人になると、その振り幅は曖昧になってしまうから、最終的に行き着く場所として楽なのは「自分が全部悪い」で済ませること。歳を取るごとに物事をいい意味でも悪い意味でも物事を省略してしまうことに抵抗がなくなってくる。どれだけ自分を傷つけてもワタシは被害者にはなれないし、どれだけ他人を傷つけても加害者に勇気は用意されて居ない。中途半端で宙ぶらりんな状態で、溺れそうになりながら息継ぎをしなくちゃいけないし前に進まなくちゃいけない。

 

自分の感情がいまどこを向いていて、本当はどこに目を向けたいのかわからない。今一番望んでることは、好きな男とダメなセックスして、腕がちぎれるまでリストカットしたいってことくらいしか頭に思い浮かばない。

 

 

腕がちぎれるほど俺はリストカットしてえ

君たちは傍観者だよ

初めて文章を書き始めたのは、15歳の時だった。その当時、中学生や高校生の中でブログというコンテンツが流行っていたからワタシもそれに便乗してたよ。何を書いていいかわからなくて色々な人のブログを眺めながら、結果的に行き着いたのは化粧パックを顔に貼り付けてる写真が多分はじめての投稿。

 

なんでもない投稿の繰り返しの中で、少しずつ利用方法が変わってきた。子供を降ろして学校を辞めたタイミングだったかもしれない。

人より多くの時間ができて、周りの学生とは少し違う生活を送った。近くにいい先生がいたから二人でいろんな議題を出して、19歳と16歳は狭い六畳一間でセックスしたらお酒を飲みながら、学術書を広げて答えのない持論を繰り広げて。

次第に一人でいる時もいろんなことを考えるようになった。乏しい知識を掻き集めて持論書き連ねるうちに多くの人が目を止めるようになったんだ。あの時の言葉は今のワタシにとってもかげがえなのいものだし、その内容は若者批判や自分の学歴コンプレックスからくる嫉妬ばかりが渦巻いた屁理屈だったけど。

考えることが楽しいに変わった時、「悲しい、嫌だ」という感情も言葉にするようになった。言葉にして整理して、綺麗な終着点を見つけられると心が軽くなったから。そのうち、ただの叫び声みたいな文章もたくさん書くようになったよね。この時点でもう、言葉にする習慣がついてしまったんだ。

 

少しずつ見てくれる人も増えて、「あなたの文章が好き」と言ってくれる人が現れるようになった。多くの人に評価されることはないけど、何気ない世界の中で出会った人に「文章を書くのが上手いね」と褒められた。

 

そのうち「小説を書こう、物書きを目指そう、作品の文章を作ってくれ、ワタシのために言葉を書いて」と誰かのためにといった要素が迷いこむことが増えた。

でも、それはどれもうまくいかなかったよ。相手の感性を形にすることはできない。ワタシの文章は全部、ワタシという人間の事実を羅列しただけのものだ。誰かの心に秘めた事実を表現することはできない。そもそも、誰かが望んでいるもの「需要」という答えの上に晒されては、不埒な言葉の羅列ばかりだよ。

 

別にお金をもらってるわけじゃないよ。個人的に書いてる文章なんて、自己陶酔。だから本当はもっと誰がどうじゃなくて、素直に言い散らかして逃げればいい。「すごいね、いいですね、お上手ですね、いい文章を書くね」って誰かに評価されるのは嬉しいけど、素直にありがとうが出てこなくて。「買い被るなよ」って暴力だ立ち向かっちゃうところがある。

 

ワタシは人とうまく喋ることができないから、いつも言葉を閉じ込めてる。でも文章は周りの人々に伝われど、傍観者でしかない安心感があるから、この歳になっても書き続けるんだろうな。本当はワタシの人生に参加して欲しいはずなのに責任を負えない。だから傍観者の中でひたすら、押し殺してきた言葉を出してる。

誰かの評価で敷かれたレールの上を歩く勇気

ワタシはずっと人に期待されることを恐れて生きてきました。父と母は素直な人ではなかったから、照れ隠しなのか、ワタシはダメな子供だと言い聞かせられて育てられてきました。ずっと誰かに認められる心地よそを知らずに、大きくなり。

 

大人になれば、誰かのフィルターに映るワタシの姿は彼らの色眼鏡で彩色されていきます。それは「期待」の眼差しを込めたモノと似ていて、とても怠慢なワタシはそれらを受け止めることができずに弾き返してばかりいました。「しおりちゃんは〜が本当にすごいよ」と褒められても、素直に受け止めることができずにいます。恐ろしくなるんです。彼らの評価で成り立つ自分が、その期待に果たして答えることができるのかと。いつだってワタシの言動は誰かという鏡に映し出されていました。

 

ある時、誰かに言われたことがあります。「あなたって、人の顔色を伺いすぎだよ」って。その一言で、自分がどれほど誰かの評価に怯えていたことか、気付かされたような気がしたんです。

 

「しおりちゃんは真面目だね、考えすぎてるよ、優しいんだね」

 

人から降り注ぐそれらの言葉でさえも、とても怖いものに感じるんです。ワタシは、本当は不真面目で、自己中心的で、すごく冷たい人間なのに。でも、真実を誰かに知られることも恐ろしく感じます。だからいっそのこと、自分からすべてを突き放してしまえば全ての悲しみを皇帝することができるんじゃないのか、傷は浅く済むのではないかと、自分を守ることばかり考えていました。

時には裏返すような気持ちを人にぶつけて傷つけてみたり、そんなことを繰り返していくうちに、どんどん孤独に苛まれていくんです。いっそのこと人を傷つけることしかできないのなら一人で歩いていこうと考えてみたところで、やっぱり寂しい気持ちを拭うことはできませんでした。

ワタシは一人でいることがとても下手くそな人間なのに、誰かと一緒にいることはもっと下手くそな人間なんです。大人になれば、ありのままを受け止めてもらえるほど、無性の愛は転がって居ません。それなのに何処で履き違えてしまったのか、いつからこんな風に傲慢チキになってちゃったのか、この歳になっても頭を抱えることがあります。

 

人から手向けられた愛情にうまく答えることができません。怖いんです、自身がないんです。無責任な愛情を注いで人の心が死んで行くのを見とって行くのは、とても怖いとだから誰にも見て欲しくな苦なる時があります。

 

ワタシは多くの人間に狂おしいほどの愛情を与えられて生きて居ます。では、その愛情をどれほどの数で返すことは出来るでしょうか。本当は寂しくて一人で泣いているはずなに、どうして自分から全てを捨ててしまうとするのでしょうか。

 

それでも声が聞こえるんです。「あげたいから、勝手に与えてるだけだよ」って、そんな言葉を浴びせてくれる人々にワタシは一生をかけても勝てることができません。人の愛は尊いモノで、それを背負う責任もないと怯えてばかりで、何処かで自分が気持ちよくなるために目を逸らしてしまうことがあります。

ワタシは誰かに気持ちよくしてもらってばかりでした。何かを与えたいと、喜ばせたいと思う気持ちは、本心なのかどうかすら、まだうまく把握することができません。

 

でも、きっと彼らは知っているんです。ワタシが馬鹿で傲慢チキで、本当にダメなことを、何処か知っていながら心を包んでくれる言葉を与えていてくれることを知っているような気もします。これはあまりにも、過信しすぎたと笑われるかもしれません。それでもワタシは、もう何かを疑うばかりではなく、誰かの評価の下で怯えるのではなく、その暖かい温もりの下で思う存分に甘えてみてもいいんじゃないかと24歳を迎えたいまは少しずつ感じることができます。

 

心を本当に委ねられる時がくるのは、きっともう少し先の未来かもしれません。それでいても、ワタシは少しずつ、凝り固まった肩を入念にほぐされて行くように、肩の力を抜いて誰かの優しさに心を委ねられる日がくればと望みます。

いつか其れらは、希望ではなく事実として変わって行くように、願いではなく真実として形を変えられるように。もっと多くの人の目を見て、向き合って生きたいです。

 

誰かの評価の下で涙を流すのではなく、誰かの評価の中で優しく笑えるような人にワタシはいつかなりたいです。ダメで弱くて臆病者で裏切り者の傲慢チキだって笑うのはとても楽だけど、ほんとうは「ありがとう」って言いたい。心の底から与えてくれモノを誠実に受け取っていきたい。

そして、いつか誰かのために、誰かにとって「あなたと居ると楽しい」と、心の底から笑顔を咲かせてしまうような、ズルくて暖かい人になる。