コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

さようなら

雨だから仕事をずっと休んでいる。エアコンで冷え切った部屋は、あまりにも涼しいね。心が空虚っていうセリフを今までの人生で何通りと吐き出してきたかわからなくて、今日もまた同じようなサイクルを繰り返している。

友達が置いていった剃刀と絆創膏を眺めながら、ここで足踏みしたくないと強く胸に誓っているよ。どんなことがあっても、2度と自分を傷つける運命を選ばないと信じていた。それでいても逃げ場や拠り所、何かに対して脱却しようとする道筋を立てる頭さえ働かないと、目の前にある手軽な物事が届くところにあると、気づいたら手を伸ばしていると同時に気持ちが慄くことの繰り返しだ。

「ああ、あの子はやっぱりダメだった」いつだって浮かぶ言葉はそればかりでしょう。頑張ってたけど心が弱いことに違いはなかったんだね、って頭の中にいる誰かがずっと陰口を叩いてるように聞こえる。友達の心配する声も、誰かの放つ悲しい嘆きも、それら全てがダイレクトに懐へ入ってくるから返す言葉が出てこない。きっと多くの人間は自分が考えているほど残酷なものじゃないし、何事からも芯のある許しを与えてくれると思う。ただ、その優しさにいまは甘んじることができないよ。

 

何日お風呂に入ってないだろう、何日歯磨きをしてなくて、鏡で自分を見ることなく生きてると思う?蒸し暑い日々はエアコンをつけても、体はベタベタして鬱陶しさが拭えない。体の匂いも何もかも、悲しいはずなのにお風呂に入らない。それでもしっかり取りすぎた栄養を無心になって吸収してる。朝起きれば体も顔も浮腫んで思い鎖をぶら下げてるみたい。

誰かに何か話して救われたいって思うのに、その矛先は知りもしない人間ばかりだから心を委ねきれずに消化不良でショートしてしちゃうよ。

 

どこかでずっと守ってきた自分のルールは、いつも簡単に壊れるね。それを壊してるものが何であるか、自分自身なのかわからない。

どうしたら幸せなのか正解なのか全部わかってるはずなのに、どうして正規ルートを辿ることができないんだろう。多分その方が楽であり、手っ取り早く、落ち込むよりもずっと気持ちよくなれて、何事も支障なく進むはずなんだ。朝は早起きして簡単に化粧をし、仕事に行き、退勤後には疲れた心と体を自宅で癒す。それだけのサイクルがどれほど幸福なことか知っている?好きな仕事も、それなりに気に入った家も、全てが自分の範疇と責任でうごめいていて。自分の生活でさえ、責任を取りきれないのだろう。

 

いろんな人には仕事もプライベートもうまくいかないよって嘆いてるけど、本当は全部些細な支障の積み重ねでしかない。自分の中でも物事を大きくしているだけであって、ざっくりと振り分けた時に残った不安の材料は些細な物事の積み重ねばかりだ。恋人との関係が悪いわけじゃないし、仕事においても耐えることのできる言葉の暴力はいくつだってある。きっと多くの人々はそれを何食わぬ顔でこなしている。「人は人だよ」って言う言葉は嘘も同然だ。そんな慰めの言葉や自分に対する「許し」だけが全てを救うほど人間にゆとりはないからね。ある程度のルールの中で身を浸していることこそが、とても生きやすい環境だと感じる時もある。だからこそ多くの他人が当たり前に歩むレールの上を、苦虫噛み潰しながら眺めて自分を奮い立たせる時も必要。もしも自分を許してしまったら、2度と後戻りできない恐怖があるよ。許し方も心の休め方も知らないから、それさえも自分のキャパを超えて爆発する。

 

どうして人間は頭でわかってることを思い通りに遂行する器用さに欠けてしまうのかな。元気な人はどうして元気なのかな。あの人は自分のキャパを超えた時に、超人の動画を見る(自分が触れてる世界とあまりにもかけ離れたものに触れる)と邪念もなく純粋に「すごい」って感想が出てくるからよく見てるって言ってた。シンプルなことで救われる人も、自分の中で知っている歪んだ文化に身を委ねてはけ口にする人間も、人それぞれだ。

だって最初からリストカットや薬を飲むという手段も、ODと言う言葉さえも耳に届いていなかったら今の現状は少し変わっていたんじゃないかな。選択肢がなければきっと、そのほかの手段で脱却する頭を使う。私たちはどうして悲しい文化ばかり手に入れてしまったのだろうか。悲しい選択肢を知りすぎて、落ち込んだ時に有り余る不安の富が目の前を過ることにより、いつでも手を差し伸べられる状況なんだ。

きっと多くの選択肢を持っていても、それらに従じることなく強く生きる人々もいる。でもね本当は誰しも簡単に受け入れる準備が整っているんじゃないかな。悲しい選択を手にする術をね。それは石ころに躓いて転んじゃうような感覚と同じで、予測のつかない踏み外しをしてしまうことは誰でもある。応急処置が必要で、それは傷を癒す目的というよりも、鎮痛剤的な役割なのかな。

ある時ふと転んで痛みを負った時、小さな傷でも人より痛みの衝撃が大きいから鎮痛剤が必要になる。多分それが薬とかリストカットとか、そういった歪んでいる物事への適切な表現のひとつなのかなって思うんだ。でも転ばないように歩く努力はできるのにね 笑

 

私はもう25歳になるんだ。だからそろそろ、音楽と酒と薬と剃刀が安心を与えてくれるっていう幻想に身を浸してられるほど、可愛い年齢じゃなくなってきた。アーティスティックなかっこいい才能もないから正規ルートで生きていくしかないんだよね。だから普通の会社に入って仕事をして、転職とか結婚のことを頭の片隅に入れながら生きてる。そう言うサイクルの中に自分なりの生産性を生み出して日々を費やしてる。真面目に誠実に生きてる。だからここで、腕を切ったり薬を飲んで楽しくなるのはダサいんだよね。ジャンキーもメンヘラも自分目に映る社会や文化の中では、正しくなくて間違ってる材料でしかない。

それを虫の息で感じてるなら、また歩き出せるから大丈夫だと思う。だからメンヘラもジャンキーもちんこもしばらく距離を置いて生きるよ。さよなら

 

 

言い訳は「雨が降ってるから仕事サボった」が正しい

金曜日の真昼間。本来ならこの時間にわたしは職場のデスクに座り、ライターさんが書いた記事を校正してるところだろう。相変わらずいい文章を書くなあって関心したり、日本語大丈夫かよって心の中で毒を吐きながら、彼女たちが書く文章が公開されるその日のために下ごしらえをしてる。

いまはというと、なぜか自宅でmacのキーボードをタイプしながら、今日は寒いなって感じてる。上司に送った「今日休んでごめんなさい」の丁寧なメールによって労いの言葉が返ってくることで安堵する。意識が低いんじゃないの?ほんとうに。心も体も健康であることも立派な仕事なのに、今日のわたしは動けなかった。それは頑なにどうしても動けなくて、布団の中で一人で泣きながら会社に連絡を入れるような朝だった。

 

「今日は雨が降ってるでしょう、だから学校サボってオナニーしてるの」っていうワンシーンが大好きだった。言葉とかいらないから、ただバカになって『わかる』ってただその気持ちだけがそこにある感じ。そのワンシーンが放つ魅力も、勢いも衝撃も、それら全ては創作の世界だから。そんなことに気づくのはあまりにも遅すぎるような気がする。現にわたしが雨の日の今日、仕事をサボっている事実は、ダサくてどうしようもなくてクソッタレの甘えん坊でしかない。でも、ちゃんと知ってるから大丈夫、今日私が仕事に行けなかった理由は、私だけがちゃんと知ってる。誰かにしてみれば仕事に対する意識の低いゆとり世代の女の子にしか映らなくても、真実を知ってる人(自分)が居ればそこまで悲しみを背負う必要もない。

 

本当は、やっぱり健康になりたいなってすごく思う。しっかりご飯を食べて、早寝早起きを心がけて、心も体も健康であることが大事。それこそが美しさであり仕事であるということを社会人になって学んだ。休むことも業務のひとつ。きっと今日はまともに仕事をできる精神状態ではなかったと思うし、上司の舌打ちを聞いて叫び出さずにはいられなかったと思う。どこかで遅刻してもいいから出勤すればよかったって後悔もあるけど、きっとダサい仕事をしてしわ寄せが回ってくる。今日はライターさんの納期がない日だから忙しない1日ではないだろうし、その日を狙ったのは賢い選択だと思う。ただひとつツケが甘かったと感じることは同じプロジェクトに参加してる後輩も休んでしまったこと。3人のチームで回してるから、二人休むと一人で運営の管理をしなくてはないけないので申し訳ない気持ちが3㎝ほどある。

でもどこかで思うだんだ。私の度胸がないだけなのかもしれないけど。うちの職場はみんな平気で休みを取る人が多い。虚弱というか、どこか体や心に問題を抱えて、それをどうにかしようとしない人が多いから休みがちな人が増えて。こっちの知ったこっちゃないけど反面教師って台詞が脳裏に浮かぶの。だからどんなに辛くても、苦しくても、多少のことで早退や欠勤を決意する気にはなれなかった。とかいって週の最後に気持ちがへりくだって金曜日の昼間に自宅でブログを書いてる女が言う台詞でもないけどね。

彼らや彼女たちの休みますと、わたしの「休みます」はどこかで違うものを感じてる気がしてる。なんじゃそりゃって話だけど、きっとそうだと思う。普段、正式に与えられている休みとは別に、行うべき業務を放棄して休むということの重みを強く実感する。心があまりにも弱いだけだから、変な意識を持ってると思われたらそこで終わりだけどね。ははは

「休んでも大丈夫」なんて思っちゃダメだし、休んじゃいけないって思ってもダメ。自分の業務に誇りを持つべだし、自分自身のキャパシティを理解して行動を判断することも大事だと思う。私生活や普段の生活リズムや習慣も、すべて仕事の何かに繋がっていることを忘れずにいることが重要。そこで上手く息抜きをしたり、美味しいものを食べて体を休息させて仕事を忘れることも仕事のひとつだ。

今日の選択は間違ってるとは思わない。自分を援護したいとかじゃなくて、ダサい仕事をするくらいなら休んだ方がマシだと思ったからね。結果的に多少の迷惑はかけてしまっていることもあるから、週明けは謝罪をしないと。

 

上司からきた労いのメールには「最近、体調がよくないみたいだから、そのことについても詳しく聞きたい」とのこと。なんて説明すればいいのかな。これといって何か身体に問題があるわけじゃない筈なんだけどね。どうやって説明しようかな。たまになんの前触れもなく、気持ちのブレーカーが落ちるんですって言ったら引っ叩かれるかもしれないね(笑)

心のことも身体のことも、もっとちゃんと向き合っていかないと、仕事に支障をきたしているうちはお金をもらう権利はないよ。お金をもらっている以上それに見合った仕事をこなすために、自分をコントロールするスキルを磨くことも大事でしょう。

「心のブレーカーが落ちる」そのポエミィな瞬間は、甘いチョコレートみたいな台詞だから公的な場所では不向きだし。やっぱりどこかで昔の古傷がうずうずしちゃうことをちゃんと説明しないといつまでも足が届く幼児プールで泳いでちゃダメってこと。

 

 

仕事のはなし

人に嫌われてもいいっていうのは、どこかで真理なんじゃないかと思う。でもきっとそれは、何十通りと言われてきたことかもしれないけど。上司と後輩の指導に関してミーティングをした時に、「わたしは部下に嫌われても良い」と言い切った。そして彼女は本当にそれを有言実行してる。だからこそ時にはやり過ぎるその言動で、社内の悪口大会の際には名前が浮上するぐらいには。

時に鬱陶しく思うことや、怯えることもあるけど、彼女はかっこいい人だと思う。

 

 

 

まだ入社4ヶ月目にして、同じチーム内での後輩ができた。彼女はわたしと同じようにいまの業界は初めての勤務なので、分からないこともたくさんと思う。それでも健気で業務を遂行しようとする姿勢は見せてくるので、指導するこちらにも気合いが入る。しかし何処かで「細かいことに逐一うるさいな」と思われていたらどうしよう?と人に嫌われることの恐れを感じる。後輩の顔色を伺うながら引き継ぎをしては、彼女のためにも自分のためにもならないのは十分に承知してる。自分の弱い部分が顔を出して「それ以上はやめたほうがいいんじゃない?」って危険信号を出してくる。

目的も答えも、どうするべきかさえも見えているのに、恐怖心がどこかで支障をきたしてくることが邪魔で仕様がない。

 

部下や後輩に慕われたいな、この人の下に就いてよかったと思ってもらえる人になりたいなと思うけど。わたしだってまだ新人の身で、今は自分のことに身を費やす時間だなんだよな。会社の人間は入れ替わりが激しかったので入社数ヶ月で後輩ができてしまうこともあるけど、まず一番に考えるべきは自分の立場や業務だ。一人で歩けるようになって初めて自分の持ってるものを引き継いで行く。なかなかスピード感のある毎日なので、自分のことも後輩の面倒も見なくてはいけなくなる。それでも弱音は吐いてられないし「出来ませんでした」じゃ済まされないのが社会なんだよね。「しょうがない」で終わらない責任感を学ぶために、いま仕事で吸収すべきことはたくさんあるんだ。

 

わたしは社会人としてのスタートがあまりにも多くて、きっと周りの同年代に比べると劣っている部分はたくさん。それでも自分のリスクを崩さないように、今を維持して一年間頑張る。そして次のステップへ少しずつキャリアアップしていこうよ。焦る必要はないと思うんだけど、「これ」という目標だったり道筋はしっかりこの一年で固めておかないとレベルアップはできない。

量と質のバランスをうまく掴むために、この1年は勝負の年だよ。頑張ろうな。