コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

遠い愛情

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いつまでもずっと手が届かないところにいるなあ。ずっと一緒に居ても、その美しさに目を凝らして眺めていることしかできなくて、自分にはあまりにも勿体のない生き物なのじゃないかって時々考えるよ。でも、それは会えない時間が育んでいった貴方への偶像でしかない。本当はずっと弱くて、ちっぽけなところもあるのに。私の中ではずっと大きくて立派で強い生き物のような気がする。

でも、痛みも悲しみもあまり見せてくれないよね。本当に必要な時は一人で隠れて巣穴に逃げ込んでしまうみたいに。それは、自分の無力さを突き付けられているみたいで苦しい気もするよ。本当の弱さを見せることのできない存在なのかな。まだ、どこかで距離があるように感じる時がある。一生知ることのない何かを隠し持っているようで、それはものすごく繊細で誰かに見せびらかすようなものじゃない。本当はそういう柔らかいところを触りたい。

たまに本当に、あの人が何処で生きているのか分からなくなる時があるな。人が何を見て、なにを考えているかなんて、他人に理解することなんてできないけど、そういう次元を飛び越えて何処か遠くに行ってしまう時がある。それは少しオカルトっぽい表現になるけど、どこか病的で、人が壊れる寸前の音がするような気がする。本当に壊れてしまわない為の防衛なのかもしれない。

 

「ごめんね」っていう言葉を最後に連絡は途絶えて、なにも分からないまま私は待つしかない。駆けつけることも、事の真相を突き止めることもしない。本当に心配だったら電話でもかけてる?こういう時の正解が私にはわからない。元気づける道具を何も持っていない。ただ、日常のどこかでふと「大丈夫かな」と何度も連絡を待っているだけ。今やるべきことは帰ってくることを待つことだ。私は薄情な女なのかもしれない。決していい女ではないし、常々そのことは周りの人間に口酸っぱく言われている。容量が悪いことも含めて知り尽くした顔で、なにも期待することなく時間を共有してると思う。それはポジティブな意味でね。この言葉を付け加えれば、なんでも物事はいい方向に進む気がする魔法。

何処で生きてるんだろう。一人で泣いてないかなって心配しても、でも心配は誰にでもできるって言葉がずしんと心の底を突いてくる。きっと心配も愛情も全部「エゴ」だって考えると言葉に詰まるし、何もせずに淡々と時が流れていくのを待つことしかできない。

いい女ってこういうときどうするんだろう?でも、他人だったらこういう時どうするのって考えはあまりにも自我がなくて、甘えてるばかりだ。

まだまだ自分は弱い人間だから人の痛みを包み込む強さは何処にもない。きっとそれを理解したうえで、あの人なりに消化して生きてる。だから、いつも楽しいと嬉しいと幸せがそこにあんだけど、それはあまりにも完璧すぎて時には寂しいっていう感情が芽生える時もある。

 

ある時、昔の恋人に会ったときの話なんだけど。あまりにも仕事のストレスにもまれて、酒の席で思わず疲れた顔をしたとき

「そんな顔、彼氏の前で見せちゃダメだよ」

って言われたときに大人ってすごいなって感じた。ああ、こういう疲れた顔とか悲しい顔は好きな人に見せちゃいけないんだって。今まではずっと痛みを知ってほしい、その傷を癒せるのは愛している人だけでしょ?って期待を込めて人と関係を築いてきた。でも、本当は楽しいとか好きとか面白いって気持ちが、そういう色が、一番に人を輝かせるはずはずなのにね。

例えば疲れた顔をしても、それは理性的であるべきなのかな。上手に吐き出したり、弱いところを見せることが大切なのに。何も考えずに理性を取っ払って吐き出されるマイナスは、本心であると共に、時には暴力的なものへと変わってしまうでしょう。

だからもっと賢く自分の痛みを武器に他人を利用するべきだし(すごく嫌な言い方だけど)、そうすることで、光が見えるその先へのゴールが見えてくると思う。でも、まだ私は不器用な部分が邪魔して上手く痛みを働かせることができない。「疲れた」ってただ一言で全振りして、深い眠りへと逃げ込むみたいに。それじゃ誰も手を差し伸べる余裕すらそこに与えることができない。

自分じゃ処理しきれない感情にぶち当たったときに、賢く痛みを発信できる人はロボットなんじゃないかな?って思う。ロボットみたいに壊れたら修理すればまた動くし、きちんと決まったマニュアルがそこに存在しているみたいにさ。機械じゃないから修理を施すときのマニュアルはどこにもないし、数うちゃ当たる戦法でぶち当たるしか救いの手立てを立てることができない。

私の痛みにもマニュアルがあって、説明書を読みながら順序を守って操作すればすっかり元気になったりしないのかな?どこまで行っても人間だから、そんなにうまく動作を起こすことはできなくて、失敗も成功も、後遺症も、全部の痕が一つ一つこの体には残ってる。

 

あ、本当はそんな話がしたかったんじゃなくて。なんだっけ。あの人との話だ。

元気にしてるかな、お仕事してるかな、お酒を飲んでるかな。彼は賢いから大丈夫って気持ちもどこかにあるんだ。あの人ならきっと大丈夫って気持ちと、本当は些細な事柄でもいいから貴方のヒーローでありたいという気持ちも。楽しいと面白いと愛してるのほかに、ほんの少しの悲しいも欲しい。彼の心の隙間を除いて、運よく滑り込んで満たしてみたいなあ。

美味しいごはんを作ることも、優しい言葉や力になる物事を与えることも、いまの私のスキルでは到底追いつかないことだけど、抱きしめることは出来る。望むなら抱きしめて「疲れたね」って二人で笑いたい。でも、そのタイミングとかそういうのが上手くつかめなくて、遠くから見舞ることしかできない臆病者なんだ。よく遠いなって感じてるけど、本当は自分から遠ざかっているだけなのかもしれない。ねえ、今何してるの

古臭い記憶

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ゴールデンな毎日も明日で終わりだ。わたくさん食べて、好きな人に会って、お小遣いを一万円もらって、生きたい場所に行って。失敗も成功もすべてを楽しめる大型連休だった。

去年の今頃はこんな風に大型連休を楽しめなかった。大型連休なんてものは、概念でしかなくて、古着屋で働く身だった頃は祝日・休日はかき入れ時の繁忙期だからね。せっせと働きながら休日を楽しむ人々を恨めしく横目に眺めていたよ。いまはこうして社会人の一員として、小さな企業に勤めて暦通りのお休みをもらっている。私はここに立つことができてよかった。

幸福だと感じる日は常々むかしのことを思い出す週案が身についていて、自分はあの頃どんな風に息していたのだろうか?と日記を読み返す。去年の今頃は悲しみに満ち溢れていたな。空虚な感情が満たされることなく、ずぶずぶの重たい心を危うい足取りで持ち歩いて生きてた。「あんまり生きていたくない」をどこかで大事に育てていたよ。その気持ちに負荷が掛かり、気づけば深夜の道路のうえで腕を切り刻み泣き叫んでいたような記憶があるし、日記にもそう綴られている。いつの間にか色んなことが終わって、始まっていく毎日だったな。「生きる」という当たり前のことを疎かにするあまり、大切なものさえ、なに一つ守れなかった。あの頃を思うと未だに胸が苦しくなるよ。

そう、わたしはいま嫌というほど地に足付けて生きている。まだどこかで「死んでしまいたい」という感情は密かに丁寧に息をしているかもしれないけど、深い眠りについて目は覚まさない。

 

父と弟とドライブに出かけた際、地元の海を車でドライブした。その時、見た景色や眺めた光景は再び過去の記憶を呼び起こす。夏の暑い日に、当時仲良くしていた男の子と海沿いのラブホテルに宿泊したオモイデがある。夜中に二人で浜辺まで歩き、波の高い潮の満ち引きに飲み込まれそうな恐怖を感じながら二人でぼーっとして。あの子は元気だろうか?最後の最期は捨て台詞のように「君のことなんて好きじゃなかった」と言われて終わった関係。

去年の記憶や経過した時間は、まだ鮮明なものだけど、いつの間にか記憶は霞んで古臭くなっていくんだろうな。あの時の感覚も、気持ちも、少しずつ過去のものとなって忘れていってしまう。きっとそれでいい。私たちはいつも今を生きていて、新しい時間を重ねていくごとに更新されていってるのだから。

 

様々な思い出によってわたしという人間は構築されている。その一つ一つはとても残酷で、ちっぽけで、幸せな尊い記憶の一部だ。思い出すべきでない記憶は、少しずつ消化されて掘り起こされることなく古い記憶として化石化していく。大切な思い出はいつでも傍に置いて、手の届くところに摘まみたいデザートみたいな感覚で生き続ける。

どんな思いでもいつかは新しい記憶の中で風化していくんだ。ちゃんと物事は終わっていくんだね。ありがとう

正しい彼女

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そういえばこの間好きな女と上野で会った話をしようと思う。

 

彼女と会うのはかれこれ一年ぶり以上な気がする。前回、彼女と会ったのは、王子劇場がある王子駅だった。実家に帰るため電車を乗り継ぐ先に私の住む自宅の最寄りがあるということで、一目だけでも会えたらと誘われて会いに行った。

彼女との日々はいつも記憶の中に強く残っている。いつでも隙のない素振りで、美しい所作と容姿をこれでかというほどに振りまきながら人々を魅了する。危うい足取りで進むその歩幅の力強さは、彼女を近くで目に留めている人にしかきっとわかることはないだろう。

 

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小さな草花が散りばめられた緑色のワンピースに身を包んで、四角い籠バッグをぶら下げて通ってくる。長く妖艶な黒髪を靡かせて、その表情には何かすべてを飲み込んでしまうような笑顔をこぼしながら。

私は彼女に会うと不思議な気持ちに駆られる。それは、安心でも幸福とも取れない、どこかで緊張感のあるドキドキという擬音が正しい感情が芽生えるんだ。いつでも背筋をしっかりと伸ばして、正しくあるべきものが在るべきものへと整頓されていくような存在として目を留められている緊張感がある。しかし、そこには不思議と居心地の悪さを感じることはなく、糸で程よく吊るされた操り人形のような心地よさがある。

 

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他愛もない話に花を咲かせながら、日差しの強い上野駅周辺を歩く。上野公園に足を運べば、大きな未来を背負い込んで人を巻き込む大道芸人の青年や食事と酒を広げた人々が各々の時間を優雅に過ごしていた。彼女と眺めるその景色は、不思議と小説の中へと吸い込まれていくような尊さを感じることが多い。一つ一つの物事をしっかりと受け止めて、咀嚼していくその姿勢は見ていて心地がいいものを感じる。自分の正しさを受け止めているような。

 

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そして私たちは十分に上野を練り歩き、満足をすると駅前の上品なカフェへと足を運んだ。いろんな話に花を咲かせては、彼女の言葉を食ういるように聞いていた。

「わたしは何処まで行っても現実主義者なんです」

そうだ、ずっとやっぱり彼女はかっこいい女性でしかなかった。尊いとか、危ういなんて言葉の物差しで飾られることのない彼女の力強さは私を圧倒するばかりで。その光の強さに照らされていると、あまりにも悪いことをしているよで、彼女の話に耳を傾けながら涙が零れそうになった。

現実にきちんと目を向けて生きている人は美しいと心から思わせてくれることに気付かせてくれる彼女はいつも美しい。その大きな瞳も、はにかむ小さな口から露になる白い歯も、長い黒髪も、すべての魅力を備え付けたように力強く真実が生きている。

前に進むためにいろんな壁にぶち当たりながらも、「ポジティブ」とい言葉をぶら下げて確実に前へと全身している。自分の気持ちと正直に向き合いながら、感情の受け皿で滴る心の滴を受け止めていくように。その桶に溜まった滴たちはどあんな色で染められていくのだろう。彼女という光に放つ色がその水面に色を映し出して反映させていくのだろうな。

私の放つ言葉に耳を傾けるその表情も、頷くタイミングでさえも、ひとつひとつの仕草が正しく用意されていて。そいこに流れる時間は、あまりにも瑞々しくて愛おしさを超えて疎ましさでさえ感じ取れる。きっと彼女しか作ることのできない空気に自分が飲み込まれていく恐ろしさと心地よさに情報処理がバグを起こしているみたいだった。

 

自分の感性を感性のままで終わらせない潔さは振り切れていて、かっこいい。小説の中から飛び出してきたような、そんな人であっても現実と向き合っている力強さがある。何事にも頑な責任感と物事を確実に賢く遂行する姿も、どれをとっても似合う言葉は「正しさ」であると思う。

きっとこれから彼女は社会人として右往左往しながら、自分の生きる領域や陣地をしっかりと確立して、社会の欠けたピースをしっかりと埋めていくのであろう。これからどう変化し、どんな風に実績を残していくのか、その姿を見逃さずに目で追い続けていたい。

 

やっぱりね、仕事ができる人、現実と対等に向き合っている人は美しいし、かっこいい。私はそういう人間が大好きだ。彼らは、現実というあまりにも不確かな世界の中で確かなものを確実に人々は刻んで生きていくでしょう。

私も彼女や彼らのように、現実社会という曖昧なレールのうえに、自分という人間の真実をしっかりと刻んで生きていきたい。大切なものを見落とさない目が欲しい。必要なものを握りしめて、不必要なものを処分しながら、ゆっくりでもいいから歩き続けたい。最後に正しかったと思える人生で彩っていきたいと感じる。

 

きっと大昔に比べて他人の言葉を受け取る度量が大きくなったと思う。誰かの言葉に耳を傾けて、自分の時間軸に刻んでいくことがどれほど大切なことなのかをきちんと知ることができている。

他人の言葉を受け取る器は、あまりにも粗雑でボロボロだった。そこに放り込まれたものは生ごみばかりで、ビニールを介さないまま放り込まれいてしまい、半年以上経過したゴミ箱みたいに腐敗して疲弊した汚い汚物入れ状態。もうそれ以上何かを受け入れる度量なんて用意されていなかった。なにも考えずに飲み込んでいたら、いつの間にか放り込まれるのは使い物にならない腐った残飯や危険ごみばかりで、分別されることのないそれらはリサイクルされることなく掃きだめになって溢れ返っていくばかり。ゴミの収集者さえも回収していってくれない始末だったね。

そして、きっと昔の私であれば、「自分自身」という頑なで曖昧なものを武器に、孤立した世界で我武者羅に振り回していた。もしくは、使い方を心得ずに立派な武器ばかり手にして、宝の持ち腐れだったかもしれない。何かを鍛錬しながら戦いに行くという勇気もないままに、最初のダンジョンでエンカウントするレベルの低いスライムを倒すばかりで一行にレベル上げなんて出来ないままで。

時間が経過していくごとに、少しずつ掃きだめは消化され始めた。きちんと分別をして、何をどこ捨てればいいのか学んでいくスキルが磨かれて行って。新しい言葉を飲み込む隙間が少しずつ露になっていったんだ。新しくできたどの隙間には、これまでのように心の器が汚物入れにならないように、放り込む前に「必要か不必要か」きちんと選別していくことの重要さを吸収することができたんだ。

それはきっとボロボロになった汚物入れを使い込んできたことによって、痛みを知ることによって、気づけた正しさという照明なんだ。私なりの正しさを手に入れる手段は、少し回り道をしすぎてしまったかもしれない。だから今ここで、足踏みをしている時間はない。

あまりにも不必要な武器を振りかざしすぎた。どんなに強い武器を持っていても、その使用方法を心得ていないと何処にも行けない。新しい街には行くことができないままだ。私はいつまでたってもマサラタウンで足踏みしてるだけじゃダメでしょう。