コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

人はでかい石で殴ると死ぬ

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私は不機嫌なのに、洗濯機の調子はいいので、それだけで少し気持ちが楽になるな〜と自分の中で言い聞かせながら生きてる。

 

入社当初は優しかった専属の上司も、いつの間にか彼女のイライラの捌け口になってしまった。いつから、変わってしまったのだろう。仕事があんまり出来ないけど、一生懸命にやってるつもりなんだ。でも、仕事というものは結果を出さなくちゃいけないでしょう。だから日々、上司の不条理な怒りだって「質の悪い肥料だ」って思ってた。でも今日だけはどうしても我慢ができなくて仕事中に涙が出そうだった。叫び出しそうになるって描写を何度も本で読んだことあるけど、全然気持ちなんてわからなかった。今日だけはその叫び出したくなる感情が出て来そうになった。

でも、どこかで私の慈悲が突き動かされて、この人もこんなにイライラしたくて生きてるんだろうなって思ったら悲しくなったりもする。だって、人は無闇矢鱈に怒ったり、イライラするのはすごく疲れちゃうはずなのに上司はずっと怒ってる。何かに怒りをぶつけているというより、ホルモンバランスが崩れて手当たり次第当り散らしてる感じがしてるんだ。

でも、私も人間だから、さっき言ったように、本当に我慢ができなかった。彼女のため息も舌打ちも、「意味がわからないんですけど」って辛辣な罵りも、積み重ねて行くうちに怒りと悲しみとやるせなさに襲われた。

いくら質の悪い肥料を肥やしにしても、それは仕事上での話だ。彼女(上司)の尺度で振りかざされる怒りの矛先として毎日仕事をしているのは、流石に息も続かなくなる。  

 

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うまく息ができないよ〜って、心が叫んでる気がする。息ができないっていうか、うまく息継ぎができないこと。正しくはね!

どこにこの気持ちをぶつけていいのか分からない。ご飯を食べても、お酒を飲んでも、現実はちっとも変わらない。現実を変えることができるのは自分自身しかいないんですよねって言われてるみたいで余計に悲しくなっちゃうんだよ。

だから、ご飯もお酒も人も必要としないぞって強く生きようとしてもそんなのは無理。美味しいものは食べたいし、たばこは吸いたくて、人に甘えたいんだよ。それは、だって普段からいろんなことを押し殺して生きてるからどこかで解き放たないと壊れちゃうのかなって考えたりする。

 

仕事のことで悩んだり考えたりするのは辛い。逃げられないから。もしも、家族や友人や恋人や、その類の人々のことで悩んでいるとする。それらは言うならば対価を得て築かれた関係ではないからいつでも捨てられるし逃げることができる。近すぎたら、少しだけ距離を置くこともできる。

仕事はそうはいかない。逃げても逃げても追いかけてくる。自分の心臓を動かすために、向き合ってぶつかっていかなくてはいけない。

ある漫画で言ってた、仕事で支払われる対価は「嫌なこと」に対して払われるって。すごいグッときたね。楽しいことじゃなくて、嫌なことで支払われるお金なんだ給料ってもしかすると。そう考えるのは悲しいことでもなくて、お金をもらえるのはやっぱり嬉しいので少しだけ「負けない」って気持ちが帰ってくるんだよね。

 

あー難しいな。それでも何食わぬ顔で明日も仕事に行って。苦虫噛み潰しながら「すみません」ってちっちゃな声で謝るんだ。上司の圧力が怖すぎて謝罪の言葉さえ縮こまってきてしまうくらいに。お局様って彼女みたいなこと言うんだろうな〜

 

でも彼女は言ってた。35を越えるとね、なんかもうプライベートのことで悩まなくなるのよ。彼氏とか家族とか友人関係とかその類のことで一喜一憂しなくなる。いろんな物事をいいみでも悪い意味でも諦めてるから、ある意味楽だよ。だから、いまも精神状態で若い頃に戻れたらきっと物事もう少し見つめ直して人生を遅れると思うし、また別の楽しさがあるんだよね。いろんな物事を諦めて生きるって楽よ。ってしたれ顔で言ってた。

 

彼女にはきっと、不安とか恐怖とか、そんな感情も年の功で忘れ去られてしまったのかな。その代わりに身につけてしまったもの、身につけたものは他人に対する攻撃性だったのかもしれないと考える。もう何も我慢することなく、自分の怒りを相手にぶつけることができる才能を持ってしまったのかもしれない。

私はどんな大人になるのだろう。いろんな物事を諦めることができて、怯えずに生きていけたとしても、振りかざす矛先は怒りであってほしくない。他人を悲しませてまで自分が楽になりたいとは思わないけどね。

 

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彼女はどうしてあんなに、いつもカリカリしてるんだろう。

お別れ

自宅の猫が行方不明になった。

お別れの時なのだったのかもしれないね。最後までずっと身勝手なやつだった。挨拶もなしに居なくなっちゃうなんて、本当にあいつらしいよ。

 

お母さんは猫が恋しいと猫のグッズをひたすら集めるようになった。弟は一年後に猫がふらっと帰って来たニュースを見て、勇気付けられたと、微かな望みで帰る場所を用意している。

彼は私たちの立派な家族として、そこに居て当たり前の存在としてちゃんと生きていたんだろう。きっと周りの主人に比べて私たちは彼を可愛がってあげることはできなかったと思う。時にはきつく当たることも、存在を無下にすることも、「動物だから」という枠組みを超えて、残酷な付き合い方をたくさんしてきた。それでも言葉を持たない彼はただ其処に存在していたよ。

言葉にしないと、何かを残しておかないと、気持ちが押し潰されそうだ。

でも、きっと本当に彼の死に目に会ってしまったら立ち直れないと思う。わたしはまだ彼とのお別れに涙を流していない。死にゆくものに、涙を流すことがなくなったのはいつからだろうか。

生きているものとのお別れには、声が枯れるほどに泣くのに、死にゆくものとのお別れには涙が出てこない。もう二度と会うことがで出来ない事実というものは、どうしても取り戻せないという事実というものは、考え方を変えてみると期待しなくて済むことなのかもしれないと考えたりする。

生きているものへのお別れは、物理的というよりも精神的な部分が八割型を占めている。だから、まだ其処に存在していることを知っているだけで、期待してしまう。その気持ちが悲しみを増幅させて、涙が溢れてくる。

でも死にゆくものとのお別れはもう二度と、本当に望んでも会えない。もう二度と本当に会えなくなってしまう。期待もなにも全ての望みや感情が絶たれるものこそが、物事への死に対する解釈なのではないかとふと思うのだった。

 

 

お別れは悲しいけど、忘れないように何度も思い出してあげることが大切だって、今生きてる私の大切な生き物たちが言ってた。なによりも、忘れないことが、思い出すことが大切なんだって。

お父さんが昔言ってたみたいに、悲しみはいつか終わるんだよって。お婆ちゃんが死んで泣いた時に言ってた。だからこの悲しみもいつか終わる。けど、それでもずっと彼のことは忘れずに居て、自分の心の中で生き続けるなんて言ったら嘘かもしれないけど。たまにふらっと思い出して「久しぶりじゃん」って笑えたらいいな。

 

もうしばら彼に会っていないせいか、最後に会った日のことなんて忘れてしまった。それでも、若かった頃のまだ幼い彼の記憶とか。「ごはんだよ〜!」っていうお母さんが私を呼ぶ声に、自分だと勘違いして部屋かた猛スピードで飛び出して言った姿だったり、大喧嘩してお気に入りのデニムを血まみれにされたり。そんな些細な記憶ばかり蘇ってくるんだよ。

それってちゃんとお互いの時間を生きてきた事実なんだ。きっとわたしが歳をとって、昔話になったら、「昔すごく可愛くない猫を飼っててね」なんて、遠い日の微かな思い出を語る時がくるのかな。そんなこともあったね、って記憶の一部として染み込んで行くのかな?

 

今は闇雲に悲しくて、悲しくて、それでも不思議と涙は流れないんだ。そこに期待は存在しないから。それは諦めじゃなくて、そうじゃない。なんていうか受け入れるガラクタの器を辛うじて用意しているような気持ち。心が壊れないように。

 

でも、こんなこと言うのはダサいけど。もっと彼の写真をたくさん撮っておけばよかった。ブサイクだし、写真写り悪いし、インスタ映えしないし、とかしょうもないことを考えてあまり写真を撮らなかったね。そこらへんのなんでもない野良猫の写真は撮ってたのに、君の写真は数枚しか残ってないよ。どれもみんな変な顔してる。

最後まで可愛くなかった。臭かったし、汚かったし、いつも喧嘩してきてボロボロだった。いびきはうるさいし、保険のおばさんに威嚇するしさ。朝の忙しい時間に限って甘えた声を出して膝の上に乗ってきた。あと、ソファに寝そべったお父さんの足元で丸まって寝るのが好きだったね。安いカリカリが大好きだったな。お母さんが職場の人からもらってきた高級なカリカリは食べなかったね。貧乏舌なところがうちの猫らしいよ。冬なんかどうしても外に出たくて、雪の中玄関まで駆け寄ってから、ドアを開けたら寒さのあまり固まって渋い顔して家の中に戻って来たり。全部覚えてるはずなのに、最後にあいつに会った時の記憶だけがすっぽり抜けてるなんて寂しいよ。

 

もっと、抱きしめればよかった。もっと臭いをたくさん嗅いで、撫でて、遊んで、一緒に寝たりしたかった。もっと一緒に居たかった。

だから嫌なんだよ。

 

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生き物はいつか死ぬから、私より先に死ぬ生き物は嫌いだ。大っ嫌いだ。大っ嫌いだけど、でも楽しかったよ。ありがとう。またね。

生きる思想 死にゆく思想

夜中に友人から電話がかかってきた。彼は酒を飲んでいるであろうしゃっくりを繰り返しながら電話口で淡々と話を始める。

 

どうして日本のラジオはトークばかりなんだろう

彼曰く海外のラジオ番組では、音楽だけをひたすら放送している番組というものが存在しているし、パーソナリティが自身の好きな曲をピックアップして流し続けるだけの番組が存在していている。音楽そのものを娯楽として楽しんでいる番組が多いと言った。それに比べて日本のラジオというのは、音楽というものが足りないそうだ。そして、たとえ音楽を流している番組があったとしても、それは如何にも商業的な流れで送り出されているものが多いと。

「なるほどね」

確かに一理あると思う。むかし仲良くしていた男の子がオーストラリアへ留学に行った際、彼は海外で気づいたことがあると言った。いまとなっては日本でも、出掛ける際にはイヤホンやヘッドホンなどを常備して外出する人が増えたと思う。しかし海外ではそれを上回る程に、音楽を生活の中に取り入れてる文化が浸透していたと言うのだ。日本に比べて遥かに異国の地では音楽という文化に寄り添って居る。

話は逸れてしまったけれども、日本のラジオ番組でトーク番組が中心となっているのは、音楽を聴くという文化が海外ほど豊かではないという話をした。

では、どうして日本人は海外の人々に比べ、音楽を嗜む文化が乏しいのだろうか(音楽をあまり聴かない)という疑問に行き着く。友人の見解によれば、日本には娯楽が溢れすぎているのだと言う。

それに比べて海外には娯楽が少ないと言う。娯楽が少ないからこそ、あるべきもので楽しむスキルが備わっているらしい。その一つとしてミュージックが存在するのだと。

いまでは、ネットなども普及して少しずつ娯楽文化は発達して居るけど、日本に比べてみると楽しむ術というものは限られているのだそう。その点、日本は様々な娯楽の文化に長けてる。例えば、アニメ、漫画、食事、パチンコ、ネットなど、あらゆるものを娯楽に変換して楽しんでいる。

物事に恵まれすぎているせいで、一つ一つとの文化との向き合い方を見失ってしまっているのだと彼は言った。多くのもが存在しすぎることによって、大切なものを見落としてしまっているのだとでも言うように。

 

その話の流れから飛躍するかのように、今の日本人は教養や常識に欠けていると驚いていた。ある程度、学生時代に最低限の学ぶべきことを学び、それらを習得して生きてきた人間として私たちは大人になった。しかし、みんなある程度は同じ土俵に立っている筈なのに、知らないことが多すぎるのではないかと彼は失望していた。

彼らは一体どんな風に生きてきたのだろうか?とでも言うように。そしてまた、其れ等を締めくくるようにして、「世の中の人々は色々な物事に恵まれすぎてるのだ」という台詞を吐露した。

「なるほどね」

そして彼は自分の話をした。お金が非常にない彼は、頻繁に通っていた近所のラーメン屋へ足を運ぶことも出来ずにいて、しばらくは節制を心がけていたと言う。そんな彼が家中の小銭をかき集めて、久しぶりにラーメン屋へと足を運んだそう。その時に久しく食べたそのラーメンの味は死ぬほど美味しくて、思わず涙が出たと漏らしていた。普段は頻繁に通っていたせいなのか当たり前になっていたその味も、環境が変わり頻繁に足を運ぶことも出来ず。乏しい生活の中で、泣けなしの小銭を握り締めて食べたそのラーメンはあまりにも美味しくて感動したと熱弁していた。

限られた物の中にこそ、幸福というものは潜んでいるのかもしれない

人々は、そんな当たり前の正論でさえも、日々の生活に揉まれて忘れてしまうことが多い。忙しい毎日の中では物事と丁寧に向き合う姿勢も、大切にしていたであろう何かも必然的におざなりにして、進まなくてはいけないことがある。

 

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きっとこれらは、どちらが正しくて間違っていると言い切れる話でもないのだろう。しかし、彼は何かを訴えかけるように、物事を考えないで生きる人々が多すぎると嘆いているばかりだった。

 

自分がこんなことを考えるようになってしまうような人間になったのは、少しだけ合理的に生きることへの選択に傾いて生れるのではないかと考える。という前置きを用意して話を進めるとして。

結局のところ、いろいろな物事を考えていたとしても、それを結果として残さなければ何も意味など存在しない。人が物事を考えること、思考することや何かを誰かに訴えかけることはいくらでも出来る。でも、なにが一番難しいのかって、其れ等を行動に移して結果に残すことだと思うんだ。

各々が、自分自身の思想や持論を抱えて生きていると思う。しかし、その各々の人間の中には二種類が存在すると思うんだ。自分の思想を行動に変える人とそうでない人。双方の人間に対して、どちらが正しいのかという話には行き着かない。

世の中にはいろんな形で自分の訴えを行動に起こして結果を残そうと踠く人々がたくさんいる。人々はそれを、疎ましく思ったり、迷惑がったり、馬鹿にしたり、時には賛同したりするだろう。日本人は保守的な人が多い傾向にあるので、自分の身を案じて賢く生きようとする人も多い。その裏側では、自分の意思を貫き通そうと必死に反社会的な行動に取り組んでしまう人だっている。

余計に物事を荒立てず、世の中の流れに添いながら、自分の人生の中で小さな実績を残し、積み重ねて生きて行くことはとても賢いと思う。何か大きな影響を与えることは出来ずとも、自分が見ている世界をきちんと維持して突き進んでいくその姿は、とても懸命だ。たとえそれが、保守的で恵まれた物事に呑まれている人々だったとしても、彼らは自分の世界で身の丈にあった幸福を掴むために日々生きている。

そして彼らとは真逆な立場の人間。日々の中で何かを常に考えていて、訴えようと行動に移し、その先にある大きな結果を望んで居る人々もいる。きっとほんの一握りだけがその結果を掴むことできるのだろう。それでも懸命に自分の思想を信じて生きてる。納得のいかない物事に関しては真っ正面からぶつかり、不器用か器用かなどの尺度で解釈するラインを飛び越えて走り続けてる。正しいことを「正しい」と主張する強さを、ちゃんと持っている人だ。

 

でも、結局のところ何かを考えて憤りを感じながら物事を訴えかけるだけで、行動を取ることをせずに終わってしまう人がいる。「世の中にはこんな憤りを抱えているぞ!」と立派に何かを豪語しても、生きるべきではない場所で吐き捨てられては、息が続かずに短い一生を終えて死んで行く。たとえば何でもない飲み屋や、日常の延長線上で吐露したとしても、社会の謙遜にかき消されてすぐに死んで行くんだよ。

自分の思考や持論の展開も、終着点を見失った酒の席で吐露される言葉たちは、発信者の娯楽の一種でしかない。どこへ行くともなく、残されることなく一瞬にして死に絶えて行く。それはまるで、お酒や煙草と同じように消費されていってしまう。

どんな形でもいい。それが臨まれた形ではなくても、どこかへこっそりテキストとして残しておくことや、短文投稿サイトを利用して世界に発信を促すこと。何かしらの形で生み出した感情や訴えかけを細く長く生き永らえさせるということは、言葉を無下にしない方法の手段なのだと思う。

形として残すことで、其れ等は陽の光を浴びることがなくとも、暗い土であったとしても、虫の息で生き続ける。何か結果を残せずとも、どこかで確かに生きているという真実が大事なんだ。生き続けることの強さに勝てるものなどないのだから。