コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

生きる思想 死にゆく思想

夜中に友人から電話がかかってきた。彼は酒を飲んでいるであろうしゃっくりを繰り返しながら電話口で淡々と話を始める。

 

どうして日本のラジオはトークばかりなんだろう

彼曰く海外のラジオ番組では、音楽だけをひたすら放送している番組というものが存在しているし、パーソナリティが自身の好きな曲をピックアップして流し続けるだけの番組が存在していている。音楽そのものを娯楽として楽しんでいる番組が多いと言った。それに比べて日本のラジオというのは、音楽というものが足りないそうだ。そして、たとえ音楽を流している番組があったとしても、それは如何にも商業的な流れで送り出されているものが多いと。

「なるほどね」

確かに一理あると思う。むかし仲良くしていた男の子がオーストラリアへ留学に行った際、彼は海外で気づいたことがあると言った。いまとなっては日本でも、出掛ける際にはイヤホンやヘッドホンなどを常備して外出する人が増えたと思う。しかし海外ではそれを上回る程に、音楽を生活の中に取り入れてる文化が浸透していたと言うのだ。日本に比べて遥かに異国の地では音楽という文化に寄り添って居る。

話は逸れてしまったけれども、日本のラジオ番組でトーク番組が中心となっているのは、音楽を聴くという文化が海外ほど豊かではないという話をした。

では、どうして日本人は海外の人々に比べ、音楽を嗜む文化が乏しいのだろうか(音楽をあまり聴かない)という疑問に行き着く。友人の見解によれば、日本には娯楽が溢れすぎているのだと言う。

それに比べて海外には娯楽が少ないと言う。娯楽が少ないからこそ、あるべきもので楽しむスキルが備わっているらしい。その一つとしてミュージックが存在するのだと。

いまでは、ネットなども普及して少しずつ娯楽文化は発達して居るけど、日本に比べてみると楽しむ術というものは限られているのだそう。その点、日本は様々な娯楽の文化に長けてる。例えば、アニメ、漫画、食事、パチンコ、ネットなど、あらゆるものを娯楽に変換して楽しんでいる。

物事に恵まれすぎているせいで、一つ一つとの文化との向き合い方を見失ってしまっているのだと彼は言った。多くのもが存在しすぎることによって、大切なものを見落としてしまっているのだとでも言うように。

 

その話の流れから飛躍するかのように、今の日本人は教養や常識に欠けていると驚いていた。ある程度、学生時代に最低限の学ぶべきことを学び、それらを習得して生きてきた人間として私たちは大人になった。しかし、みんなある程度は同じ土俵に立っている筈なのに、知らないことが多すぎるのではないかと彼は失望していた。

彼らは一体どんな風に生きてきたのだろうか?とでも言うように。そしてまた、其れ等を締めくくるようにして、「世の中の人々は色々な物事に恵まれすぎてるのだ」という台詞を吐露した。

「なるほどね」

そして彼は自分の話をした。お金が非常にない彼は、頻繁に通っていた近所のラーメン屋へ足を運ぶことも出来ずにいて、しばらくは節制を心がけていたと言う。そんな彼が家中の小銭をかき集めて、久しぶりにラーメン屋へと足を運んだそう。その時に久しく食べたそのラーメンの味は死ぬほど美味しくて、思わず涙が出たと漏らしていた。普段は頻繁に通っていたせいなのか当たり前になっていたその味も、環境が変わり頻繁に足を運ぶことも出来ず。乏しい生活の中で、泣けなしの小銭を握り締めて食べたそのラーメンはあまりにも美味しくて感動したと熱弁していた。

限られた物の中にこそ、幸福というものは潜んでいるのかもしれない

人々は、そんな当たり前の正論でさえも、日々の生活に揉まれて忘れてしまうことが多い。忙しい毎日の中では物事と丁寧に向き合う姿勢も、大切にしていたであろう何かも必然的におざなりにして、進まなくてはいけないことがある。

 

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きっとこれらは、どちらが正しくて間違っていると言い切れる話でもないのだろう。しかし、彼は何かを訴えかけるように、物事を考えないで生きる人々が多すぎると嘆いているばかりだった。

 

自分がこんなことを考えるようになってしまうような人間になったのは、少しだけ合理的に生きることへの選択に傾いて生れるのではないかと考える。という前置きを用意して話を進めるとして。

結局のところ、いろいろな物事を考えていたとしても、それを結果として残さなければ何も意味など存在しない。人が物事を考えること、思考することや何かを誰かに訴えかけることはいくらでも出来る。でも、なにが一番難しいのかって、其れ等を行動に移して結果に残すことだと思うんだ。

各々が、自分自身の思想や持論を抱えて生きていると思う。しかし、その各々の人間の中には二種類が存在すると思うんだ。自分の思想を行動に変える人とそうでない人。双方の人間に対して、どちらが正しいのかという話には行き着かない。

世の中にはいろんな形で自分の訴えを行動に起こして結果を残そうと踠く人々がたくさんいる。人々はそれを、疎ましく思ったり、迷惑がったり、馬鹿にしたり、時には賛同したりするだろう。日本人は保守的な人が多い傾向にあるので、自分の身を案じて賢く生きようとする人も多い。その裏側では、自分の意思を貫き通そうと必死に反社会的な行動に取り組んでしまう人だっている。

余計に物事を荒立てず、世の中の流れに添いながら、自分の人生の中で小さな実績を残し、積み重ねて生きて行くことはとても賢いと思う。何か大きな影響を与えることは出来ずとも、自分が見ている世界をきちんと維持して突き進んでいくその姿は、とても懸命だ。たとえそれが、保守的で恵まれた物事に呑まれている人々だったとしても、彼らは自分の世界で身の丈にあった幸福を掴むために日々生きている。

そして彼らとは真逆な立場の人間。日々の中で何かを常に考えていて、訴えようと行動に移し、その先にある大きな結果を望んで居る人々もいる。きっとほんの一握りだけがその結果を掴むことできるのだろう。それでも懸命に自分の思想を信じて生きてる。納得のいかない物事に関しては真っ正面からぶつかり、不器用か器用かなどの尺度で解釈するラインを飛び越えて走り続けてる。正しいことを「正しい」と主張する強さを、ちゃんと持っている人だ。

 

でも、結局のところ何かを考えて憤りを感じながら物事を訴えかけるだけで、行動を取ることをせずに終わってしまう人がいる。「世の中にはこんな憤りを抱えているぞ!」と立派に何かを豪語しても、生きるべきではない場所で吐き捨てられては、息が続かずに短い一生を終えて死んで行く。たとえば何でもない飲み屋や、日常の延長線上で吐露したとしても、社会の謙遜にかき消されてすぐに死んで行くんだよ。

自分の思考や持論の展開も、終着点を見失った酒の席で吐露される言葉たちは、発信者の娯楽の一種でしかない。どこへ行くともなく、残されることなく一瞬にして死に絶えて行く。それはまるで、お酒や煙草と同じように消費されていってしまう。

どんな形でもいい。それが臨まれた形ではなくても、どこかへこっそりテキストとして残しておくことや、短文投稿サイトを利用して世界に発信を促すこと。何かしらの形で生み出した感情や訴えかけを細く長く生き永らえさせるということは、言葉を無下にしない方法の手段なのだと思う。

形として残すことで、其れ等は陽の光を浴びることがなくとも、暗い土であったとしても、虫の息で生き続ける。何か結果を残せずとも、どこかで確かに生きているという真実が大事なんだ。生き続けることの強さに勝てるものなどないのだから。

 

誰かの眼に映る景色の一部(わたし)

違うそうじゃない、って思うことは日々の中ではたびたびあるけど、それでもその言葉をぐっとこらえて生きてる。もしかすると一旦それらをの飲み込んでから、忘れた頃に引っ張り出してくると納得してしっくりきたりするもんだ。

 

最近はずっと苦しくて、どこかでだんだんと逃げるように、おかしな量のご飯を食べ続ける生活が立て続けに続いた。もちろん幸福なこともあるけど、やっぱり平日にさしかかって仕事が始まると憂鬱な気持ちが心を軋ませていた。

 

そういえばこの間、吉祥寺の井之頭公園へと遊びに行った時の話なんですが。

公園内で小さなアート展が開催されていて、各々が路上に小さなブースを構えながら作品の物販を行っていたんです。その中で一際目を惹かれるものがふたつ。

ひとつは木で出来た機関車が、木のレールの上を走る玩具を作って居るお爺さんに出会いました。私と母は二人して興味津々で眺めて居ると、お爺さんはゆっくりとこちらを眺めて

「これに興味を惹かれる貴女たちは、まだ少女の心を持って居る証拠だ」

と言って微笑みかけてくれました。

年の功って素敵だな。私の中でのステレオタイプかもしれないけれど、なんとなくお爺さんから吐き出されたその言葉は飾り気がなくて、瑞々しい響に聞こえました。若者のそれらはどこか気取っていて、まだ数を小さい彼らのその言葉には重みを感じられないよう勝手な解釈をして。

その場で、その情景の中、知りもしない親子に対して、自分の作品に興味を示してくれた恩恵と共に、己の作品に対する誇りを感じる素敵な言葉のプレゼントでした。

 

次に私たちが出会ったのは様々な形をした花瓶を売るお爺さん。その方は横浜のほうから遥々、東京の吉祥寺へ不思議な花瓶を売りにきているのだそうです。花瓶の形はひとつひとつ、それぞれ不思議な歪み方をしていて、個性豊かな子たちばかり。古い捨てられるはずの空き瓶をリサイクルして、熱して歪めて作った作品だそうです。どれも300円という破格あったので、一目惚れしたワインの空き瓶のリサイクル花瓶を購入。

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同じように興味を惹かれて眺めていたおばさんが、「孫のプレゼントに欲しい」と花瓶を吟味していました。彼女のお孫さんはバイオリンを習っているそうで、その発表会のお祝いの品としてお花をあげるそう。そのお花のお供に素敵な花瓶も一緒にプレゼントしようという魂胆だそうで、粋なおばあちゃんだった。

 

街を出てれば、そこにはいろんな景色や出会いがあって、いつだって刺激的だ。

急な上り坂を自転車で必死に漕ぎ続けるサラリーマンのおじさんや、カレーパンを頬張りながら歩く女性(わたし)

きっとそういう誰かの日常や時間を眺めて居るそばで、私も何気ない情景の中に溶け込んで生きているのだと考えたらとても不思議な気持ちになった。私だって、誰かの眼に映る世界の、景色の一部分なのだと。

 

今日はとても穏やかな日曜日。雨はしんしんと降って居るけれど、心は穏やか。話したいことはたくさんあるけど、今日はこのへんで。

 

家族の風景

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母がはるばる鎌倉から遊びにきてくれて、二年前から約束をしていた吉祥寺デートへ。急遽泊まりにこないか?と誘いを提案してみる、身軽なそぶりで正装をして東京へとやってきた。電車に乗りなれない彼女は何度も乗り換えで不安を訴えながら、なんとか私のクラス土地へ。

 

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1日目は立川でお酒を飲んだ。彼女はお酒がとても好きな人だ。たばこをやめてからというもの、よくお酒を飲むようになった。ひたすらビールを飲み続け、お互いの近況や家族の話などに花を咲かせる。ふと、若くして亡くなった私の叔父にあたる彼女の兄の話を始めた。目には涙を浮かべて「

どうしてもっと感謝の気持ちを伝えてあげられなかったのか、助けてあげることができなかったのか」

と悔やみながら涙を浮かべていた。

彼女の兄は若くして病気でこの世を去った。彼が亡くなる前、わたしたち家族は叔父にとてもお世話になり。いつも助けてもらっているばかりだったはずなのに。些細なことをきっかけに家族ぐるみで叔父との関係に亀裂が入り、関係を修復できないまま叔父はこの世を去ってしまった。母はそのことをいまでも悔やみ続けている。

母の涙はいつも真っ直ぐに感情をぶつけてくる。何かを惜しむ気持ちですすり泣くわけでも、子供のように泣きわめくわけでもない。ただ自分の感情をしっかりと心に留めながら真っ直ぐに泣くのだ。

今まで、幾度も彼女の涙を見続けてきた。久しく会った酒の席で母は、真っ直ぐに涙を流したことが印象的だった。

 

 

 

お酒も入っていることもあり、様々な話が行き交った。

「最近どうなの?「彼とはうまくいってるの?」「結婚はいつするの?」など。私もそんな言葉を投げかけられる歳になってしまったようだ。

 

ただ、彼女の話を聞くたびに感じることは、私はこの人にきちんと愛されていたのだと実感をした。母の話を聞くたびに、その不器用な家族の優しさに触れることができる。幼い頃からわたしは、ちゃんと愛情を持って育てられていたはずだった。

それでも家族の中に溝ができ、心を疲弊せてしまうような様々な出来事はどうして生じてしまったのだろうかと考えてみる。

それはきっと彼女たちの愛情と、私が受け取るべき間柄に何かしらの相容れないものが存在していたのだと思う。母も父も私をきちんと愛していた。そして、私はそれをうまく受け取れるほどの度量を持ち合わせていなくて。

結果的に悲しい思いをたくさんしてしまうこともあったけど、いまこうして母と笑いながらお酒を酌み交わしていることがとても幸福に思う。私たちは長い年月をかけて少しずつ違いに歩み寄り、分かりあえずとも。きちんと違いの存在を認めあっている。

 

悲しいことも、苦しいこともたくさんあった。それでもいま、一緒に美味しいものや、美しい景色を眺めて感動している。こうしてお互いに生きている時間が、ゆっくりと確実に流れているのは、悲しい時代が痛みを請け負ってくれたおかげで、いまこうして笑うことができているのだ。

 

母は私の自宅に着くと、「電車の音が聞こえてきて好き」と喜んでいた。本来であれば煩わしく思う電車の音でさえも、彼女は楽しみ、少女のように微笑んで「嬉しい」と行った。彼女はなぜか電車が好きだ。特別マニアックなところまで愛しているわけではないけど、電車に揺られ電車の音を感じることをとても好んでいる。

この部屋は駅が近いので電車の音が聴こえてくる。彼女はそれを耳にして喜んでいた。そして、喜ぶ彼女をみて、わたしもまた穏やかな気持ちのおすそ分けをしてもらったように感じて。