コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

抜け穴の探し方 心の赤ん坊

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みんなどうして悲しいことがあったとき、変わらずに動き続けられるんだろう?立派だね。全てを投げ出すことなく、何があっても生きるために生活水準を保つことできる強さ。すごい

 

ってずっと思ってた。いつも悲しいことや嫌なことがあると、全てを捨ててもう二度と立ち直れないほど自分を壊してしまう甘えがずっとあった。でも、やっとわかったことは、みんな苦しいから動き続けているんだろうなってこと。立ち止まる方がずっと悲しくて、ずっと耐えきれないから、面と向かって悲しみと正面衝突するんじゃなくて逃げ道をうまく使って生きているんだろうなって。自然と。

私にはずっと逃げる場所がなくて、今ある全てのものを投げ出すことしか知らなかった。不器用だから、抜け穴を全部塞いで、悲しみに閉じ込められているばっかり。悲しみが明けた頃には、何もなくて全て振り出しに戻る繰り返し。せっかく前に進めた事実さえも振りほどいてリセットしちゃう。

 

今は違うな。ちゃんと自分の逃げ道も、心の抜け穴もあるもの。どうして、みんなが変わらずに動き続けることができるのか?やっと少しだけわかった気がするんだ。だから、不安にならなくても大丈夫なんじゃないかな?

 

賢く生きることはすごく難しいし、まだそのスキルは全然備わってない。きっと周りの人に比べて、私の前進するスピードはとても遅い。だから置いてけぼりになっちゃうし、馬鹿にされたり、傷つけられる事もたくさんあるよ。

それでも自分のリズムを乱さないようにやって行こう。何事も積み重ねなんだ。投げ出したらそこで終わってしまう。何か一つでもいいから、自分のリズムを掴んで進めてみようかね。

 

馬鹿にされても、貶されても、傷つけられても、それはとても悲しい事だけど。生きてるって沢山そういうことがある。ひとつひとつの刺激に涙を流していたら心が持たなくなっちゃう。「繊細」とか「感受性が豊か」って時には邪魔になる時もある。きっと必要な時もあるのだろうけど。自分の持ってるものをまだうまく出し引き出来てないから、失敗を繰り返してるんだけどね。

だからもっと強くならないかな?っていつも考えてる。もしも悲しいことや、凹むことがあっても立ち止まるんじゃなくて「よしやってやろうぜ」っていう強さがもう少し欲しいなって思う。今のままじゃ、多分これから先何十年も長い人生の中でうまく綱渡りできないから。

 

強くなるにはどうしたらいいと思う?っていつも考えてるんだけど、なかなか上手くいかない。一人になるといろんなことを考えてしまいがちだよね。

でも、一つだけ良かったことがあって。いま私は確実に動き続けてること。動き続けるってこんなに気持ちよくて、何かを無我夢中でやり続けるってこんなに楽になれることなんだなって初めて実感した。立ち止まってると嫌なことや不安がどっと押し寄せてくるけど、少し我慢して動き続けるだけで、気持ちが楽になれる。

「あ、私は、私のために生きようとしてるぞ」っていう事実がそこにあると嬉しくなる。誰かのためじゃなくて、自分自身のために努力をすることって一番気持ちがいいかもしれないな。

もちろん誰かのために努力をする事も楽しいけど、自分のために頑張る行為ってすごい有意義なオナニーみたいで。少しだけ安心する。誰かのためって理由だけで動き続けてると一人になった時に途方に暮れちゃうから。

自分のために動き続けると、これから先誰かとの関わりで悲しいことがあっても、頑張ってきた貯金が心を救ってくれるんじゃないかなって思うんだけど。一番大事なことさ、それを「本当に悲しい時」に思い出せることなんだ。だから練習を沢山する。いつくるかわからない本番に向けていつでも特訓なくちゃ。

本番は唐突に、いきなりやってくるからいつでも本番の意気込みで、取り組んでやろう!って思うの。そうすれば少し日々の積み重ねで鍛えられていくんじゃない?それに、そうすることで自分自身がホッとできるのも事実だから。

 

 

悲しみの本番に向けて、日々鍛錬してる。どんなに悲しいことがあっても二度と投げ出してしまわないように。

「人は永遠に悲しみ続けることはできない」ってお父さんがむかし言ってた。

悲しみは悲しみできっと鬱陶しく思う感情ではないけど、それに全ての身を委ねる必要はないから。お友達になるくらいの距離感でうまく付き合っていけたらいいのに。

 

自分の心の弱さがとても恐ろしく感じる。やっぱりこんなことを言っても、何かを一つでも失ってしまった時、変わらずに下を向きながらでも歩けるかなってさ。その時になって見ないとわからないけど。

本当はいつも自分が怖い。誰かじゃなくて自分が一番怖い。救いのない闇のマントに身を包んじゃって二度と光を拝まないと意固地になっちゃうところが怖いよ。今はこんなに穏やかに考えられるのに。何か大きな衝撃が起こると何も考えられなくなって体が動かなくなる。そしてもう二度と立ち上がることはできないと思い詰めて、淡々と時の流れを無心でなぞっていく。

 

いろいろ考えられる頭があって、こうしたほうがいいっていうアイディアがあるのに。衝撃を緩和するスポンジが全然足りないからその時だて本当に死んでしまう。

 

私はメンヘラじゃないよって笑ってるけど。見栄とかじゃなくて、そう思いたい願望だったり自分を奮い立たせる材料だったり。

でもあいつはどこかで息を潜めて、顔を出すタイミングを見計らってるのを知ってる。小さくなって息をしてる。虫の息かもしれないし、優雅に眠っているかもしれない。

 

誰かは病気じゃないっていうし、誰かは病気だからしょうがないっていうでしょう。でもその誰かの言葉に惑わされて自分の首を絞めてばっかりだった。「じゃあ、なんて言ったら100人が100人納得してくれるんだ!」って。心の問題だから、誰かじゃなくて自分がちゃんと向き合ってあげなくちゃいけない。

 

どっちだっていいんだよ、そんなことは。悩んでることに間違いはないんだから。時には耳を塞いでもいい言葉もある。

 

 

もしも息の根を止めることができなくても、できるだけ長く、穏やかに眠っていてほしいと思う。私がずっと子守唄を歌っていてあげる。ちゃんと見守っていてあげるから、安心して眠ってほしいな。

 

あ、そうだな。きっと「赤ちゃん」なんだ。きちんとお世話をしてあげないとぐずる。でも言葉を知らないからどうして泣き叫んでいるのかわからない。でも、付き合っていくうちにどうして悲しいのかな?今何を欲してるのかな?って分かるようになってくる。それはきちんと向き合ってきた時間の結果なんだね。

 

だから、そこで眠ってる私の悲しみや不安や、名前の付けられないそれらときちんと向き合って守ってあげなくちゃいけない。いつか一人で立って歩けるように。大きくなって言葉を話せるようになって独り立ちする日が来る。それがいつだかわからないけど。いま向き合うことをおろそかにせずにいればきっと健やかに穏やかに育っていく。

 

そうだ。赤ちゃんみたいなものなんだ。きちんと私が心という赤ちゃんに栄養を与えて、向き合って、培っていく時間が大切なんだよね。

 

憎たらしくて、可愛い赤ちゃん。繊細で弱くて一人では生きていけない。私が手を差し伸べてあげればいい。

仲良くしてあげればいいんだよね。

 

今日も今日とて、仕事をそつなくこなして、定時に上がりクタクタの体を引きずって家路に帰る。電車の中では安西水丸の本を読みながら、通勤時間さえもいまは楽しめる心の余裕を持っていると思う。

最寄りの駅について、ふと財布の中を確認して落胆したり。家に帰宅してからはすぐに単発のバイトに登録したり。職場近くにあるジムを調べてみるも、ポスターに記載されていたリーズナブルな値段というのは、何を基準にリーズナブルだと言っているのかな?とその価格に失望したり。

やはり何事もお金は必要で、ご飯を食べるのも、定期を買うのも、タバコを吸うのも、全部お金が必要で。暮らすことも生きることも、息をしてるだけでお金は。

 

泣きたくなることも、もう嫌だって投げ出したくなることも、腐る程あるし、それでもいま自分が生きていく為には何が何でも動き続けなくちゃいけないから。日々の小さなことの中で幸福や楽しみを見つけて。自分の寄りかかる柱を増やしていかないと思う。

もしも、いま私が無職だったらきっとこんな風に思えなかったな。働くってすごいことだな。そんなことは至極当たり前なことだけど、今の私にとっては一つ一つの出来事が大切で新鮮で丁寧にとまではいかずも、少しずつ前に進んでる気がする。

 

 

自分の気持ちを察してもらえなかったり、打ち明けたり、それでも伝わらない想いが消えていくことも、そんなこともいつかどうでもいいと思える日が来るのかな?

自分自身がいまこうして立っている場所も、歩こうと必死になっていることも、きっと本質なんてものは誰にも伝わらないのは全然わかってるから、ちゃんと他人に期待しないように自分が自分自信を受け止めてあげればいい。人のことなんて、他人にはわかるはずがないし、他人が見ている自分自身も少なからず事実だから。そこで逃げようとしたり自分の殻に閉じこもるんじゃなくて、もう少し誰かの言葉に耳を傾けてみるのも大人への一歩なのかもね。

昔は誰の言葉も耳を塞いで生きてきた。自分を否定する言葉や、耳が痛い話は全部知らないふりをするか、自らをどん底に突き落としてボロボロになることでしか自分の意思を相手に伝えることしかできなかったと思う。

今だって、人に自分の気持ちを伝えるのはすごく難しい、まだまだ子供だから思わず意固地になって、口から出る言葉は天邪鬼なことばかり言ってしまう。それが正しいとか正しくないとかでもなくて。納得がいかないことでも「そうだな」って自分に嘘をつくことで気持ちが楽になれることもあるんだって最近初めて気づいたんだよね。

私は、あまりにも自分自身に素直になりすぎてた。時には自分についた嘘が本質に変わっていくこともあるし、そうすることで人生は少し好転していたかもしれない。あくまでたらればの話でしかないね。

 

 

 

生きていくって難しいことばかりだ。私は頭がそんなに良くないから、賢い方ではないから、後先考えずに今自分ができることにぶつかっていくことしかできなかった。もう子供じゃないんだから、もう少し自分のために本当に大切なことを考えなくちゃいけないのに頭の中身は煩悩ばかり。もしもの保険なんて、自分の心が壊れないようにするためのものでしかない。だから何か起こった時に「生きる」ことが困難になりがちなんだ。自分の身を存在を守る保険じゃなくて、曖昧で不安定な心の保険ばかりかけて生きているからしわ寄せが全て自分に覆いかぶさって来るんだ。

 

我慢できなくて、衝動で口にした想いや言葉も、振り返ってみると本当はもう少し大切に出来たんじゃないの?って後悔することが24歳になってから増えた。私は大人になるにつれて、弱いってどんな痛みなのか少しずつ実感していく気がするんだよね。

溜め込んだ言葉や感情の引き出しはぶっ壊れてて、ふとした衝撃で自分の意図せぬ場所で開いたりするから、そういうところもっと賢くなりたいな。きっと感情や言葉の引き出しは、溜め込みすぎてもう入りきらなくて。それでもいつだって無理やり無造作にしまい込まれて行き場を失ってる。

整理整頓して、古い感情は早く捨てないと。感情の断捨離をしないといつか爆発しちゃうでしょう。それでも何処に捨てていいのかわからなくて、荷物は増えて。しまうところがなくなった感情は無造作に床へと散りばめられてく。手にとってぽいって具合に適当な誰かへと投げてみたらビリビリに破かれて報われることなく捨てられたり。そんなことを繰り返していたら、本当に必要な時にその感情が見つからなくなって消えてしまったりするんだもの。本当は自分の気持ちを無下にしてるのは、自分自身なのかなあ?

 

 

わたしは、わたしの生きたいように生きているかな。わたしが生きたいように生きていくためには、それなりに努力をしなくちゃいけないと思うし。我慢することもたくさんあるんだけど譲れない何かも一人の人間として一応備わってるつもりなんだ。

もしも、もしもだよ、その譲れない何かと相反するものがすごく大切なものだったとししたら飲み込まれるのか飲み込むのか失うのか。きっと選択肢はその三つしかないのかもしれないと思うんだよね。飲み込みたくても飲み込むことができないものって世の中にはたくさんあって、飲み込まれたいと願っても飲み込まれることができないときだって必ずしもひとつやふたつこの世には存在してるでしょう。そういう時に私は自分の手元になにを残すんだろう?今までは全部捨ててきた。持ってるもの全てを投げて何も残らないようにしてた。もうそんなことは通用しないんだよ?

じゃあ、今の私は自分に何が残せるのかな。

 

例えば何かしらの衝撃で何かを失ってしまうことになっても、私はもう全てを投げ出すことは絶対にしたくない。そんなことをしても全然幸せになれなかったし、全然気持ちは報われなかったことを知ってるから。同じ失敗を繰り返すほど愚かな人にもなりたくないし、そこまで衝動的に人生を生きていたくもないって本音でしょ。

そんなの病気とか全然関係なくて、もしも病気だったとしても、これからの一回の成功であっという間に治ってしまうかもしれないでしょう?

 

賢く生きたいな。負けたくないな。でも、今自分が抱いてる気持ちも無下にしたくないし大切にしたいと思う。間違ってるなんて誰にも言わせないために自分が正しいと思った道を貫き通すしかないんだよ。バカにされてもけなされても、認めてあげることのできる一番の味方は私だよ。他の誰かじゃなくて私自身なんだってことを。

 

一方通行でもいい。意見が食い違ってもいい。片思いでも、伝わらなくても、なんでもいいから今の気持ちを自分が否定しちゃいけない。嘘をつくことと否定をすることは全然違うのだから。

 

 

 

わかってるよ。他人の人生を生きる必要はないんだよ。自分から不幸に突き進んでいくのも嫌だ。寂しさや愛しさだけで掴み取ったそれを大事に握りしめて、知らないうちに自分が死んでいくのはもう絶対に嫌だ。

涙の話をもう少しだけしてみようと思う。

 

 

悲しむべきところで私はずっと泣けなかった。きっとこの状況で泣いたら、この時間は変化を加えられると思い泣くことが多々あったんだ。そう、それはまるでほしよりこの作品に出てくる「逢沢りく」という作品に登場する彼女のように。

彼女は嘘の涙を流すことができる。悲しみの意味も知らずにー

 

books.bunshun.jp

 

きっとあの頃の私はこの作中の主人公のように、いつだって涙を用意していた気がするし、本当の悲しみを知らなかったと思う。

あの時本当の悲しみを失ってしまってから、心のなかに空っぽの隙間が生まれて、涙を流すという行為は本当の悲しみからくる反動ではなくて自分の心が壊れてしまわないようにする防衛でしかなかった。

涙を流すことはたやすくて、自分の納得のいかないことがあると壊れてしまわないように声を枯らしてよく泣いていた。これ以上なにも考えてしまわないように、全ての邪念を身体から放出するように泣き続けていた気がする。

それはまるで、赤ん坊が自分の意思を誰かに訴えかけるための手段として泣き叫ぶように、大人になった私は自分の意思伝達を涙で片付けようとしていたのかもしれない。本当の悲しみをどこかに置き去りにしてしまったかのように。

 

 

そんなことを繰り返していた私は本当に悲しい時に涙を流せなくなってしまった。本当に大事な時に涙を流せなくなってしまった。本当は悲しくて、涙を流してしまわないと自分が壊れてしまいそうなのに、涙を流すより先に自分自身を壊すことに徹することししかできなかった。自分自身だけではない、きっと多くの人を傷つけて悲しませて、涙を流す代わりにいろんなものへの破壊衝動に駆られた。

いつの間にか涙のタンクは空っぽになってしまって、泣き方を忘れてしまった時期があった。

 

 

 

最近になって、心のゆとりを取り戻してきたのか、よく泣くようになった。人生初めての嬉し涙を流すことへの幸福感を抱いた。お父さんが言っていた「嬉しい涙はいくらでも流していいんだよ」という優しいセリフを思い出して。

こんなにも涙のことを考えている私は泣きたくて仕方がないのかもしれない。

 

 

ある夜に流した涙。全てを失ってしまう恐れと、もう二度と戻ってこないものへの悔やむ気持ちを布団の中で泣き続けた。あの時流した涙は特別だったよ。私は大切なものを二度失ってしまっている。あまりにも残酷なその過去への悲しみは硬く封じ込められてしまって、建前の用意された悲しみでしか弔うことができなかったのに。

ある夜、本当に大切だと思う人に力強く抱かれたその時に、涙が溢れて、どうしようもなくなってしまったことがある。もう二度と取り戻すことのできないものを初めて悲しみのゆりかごの中で安らかに寝かしつけることができたかもしれない。

 

今言葉にしないと忘れてしまう感情をこうして、公然の前に晒すことによって自分の気持ちごと弔われるような気がする。

 

 

なんか疲れちゃった。