コインランドリー

ありふれたような、日常の流れです。

今日も今日とて、仕事をそつなくこなして、定時に上がりクタクタの体を引きずって家路に帰る。電車の中では安西水丸の本を読みながら、通勤時間さえもいまは楽しめる心の余裕を持っていると思う。

最寄りの駅について、ふと財布の中を確認して落胆したり。家に帰宅してからはすぐに単発のバイトに登録したり。職場近くにあるジムを調べてみるも、ポスターに記載されていたリーズナブルな値段というのは、何を基準にリーズナブルだと言っているのかな?とその価格に失望したり。

やはり何事もお金は必要で、ご飯を食べるのも、定期を買うのも、タバコを吸うのも、全部お金が必要で。暮らすことも生きることも、息をしてるだけでお金は。

 

泣きたくなることも、もう嫌だって投げ出したくなることも、腐る程あるし、それでもいま自分が生きていく為には何が何でも動き続けなくちゃいけないから。日々の小さなことの中で幸福や楽しみを見つけて。自分の寄りかかる柱を増やしていかないと思う。

もしも、いま私が無職だったらきっとこんな風に思えなかったな。働くってすごいことだな。そんなことは至極当たり前なことだけど、今の私にとっては一つ一つの出来事が大切で新鮮で丁寧にとまではいかずも、少しずつ前に進んでる気がする。

 

 

自分の気持ちを察してもらえなかったり、打ち明けたり、それでも伝わらない想いが消えていくことも、そんなこともいつかどうでもいいと思える日が来るのかな?

自分自身がいまこうして立っている場所も、歩こうと必死になっていることも、きっと本質なんてものは誰にも伝わらないのは全然わかってるから、ちゃんと他人に期待しないように自分が自分自信を受け止めてあげればいい。人のことなんて、他人にはわかるはずがないし、他人が見ている自分自身も少なからず事実だから。そこで逃げようとしたり自分の殻に閉じこもるんじゃなくて、もう少し誰かの言葉に耳を傾けてみるのも大人への一歩なのかもね。

昔は誰の言葉も耳を塞いで生きてきた。自分を否定する言葉や、耳が痛い話は全部知らないふりをするか、自らをどん底に突き落としてボロボロになることでしか自分の意思を相手に伝えることしかできなかったと思う。

今だって、人に自分の気持ちを伝えるのはすごく難しい、まだまだ子供だから思わず意固地になって、口から出る言葉は天邪鬼なことばかり言ってしまう。それが正しいとか正しくないとかでもなくて。納得がいかないことでも「そうだな」って自分に嘘をつくことで気持ちが楽になれることもあるんだって最近初めて気づいたんだよね。

私は、あまりにも自分自身に素直になりすぎてた。時には自分についた嘘が本質に変わっていくこともあるし、そうすることで人生は少し好転していたかもしれない。あくまでたらればの話でしかないね。

 

 

 

生きていくって難しいことばかりだ。私は頭がそんなに良くないから、賢い方ではないから、後先考えずに今自分ができることにぶつかっていくことしかできなかった。もう子供じゃないんだから、もう少し自分のために本当に大切なことを考えなくちゃいけないのに頭の中身は煩悩ばかり。もしもの保険なんて、自分の心が壊れないようにするためのものでしかない。だから何か起こった時に「生きる」ことが困難になりがちなんだ。自分の身を存在を守る保険じゃなくて、曖昧で不安定な心の保険ばかりかけて生きているからしわ寄せが全て自分に覆いかぶさって来るんだ。

 

我慢できなくて、衝動で口にした想いや言葉も、振り返ってみると本当はもう少し大切に出来たんじゃないの?って後悔することが24歳になってから増えた。私は大人になるにつれて、弱いってどんな痛みなのか少しずつ実感していく気がするんだよね。

溜め込んだ言葉や感情の引き出しはぶっ壊れてて、ふとした衝撃で自分の意図せぬ場所で開いたりするから、そういうところもっと賢くなりたいな。きっと感情や言葉の引き出しは、溜め込みすぎてもう入りきらなくて。それでもいつだって無理やり無造作にしまい込まれて行き場を失ってる。

整理整頓して、古い感情は早く捨てないと。感情の断捨離をしないといつか爆発しちゃうでしょう。それでも何処に捨てていいのかわからなくて、荷物は増えて。しまうところがなくなった感情は無造作に床へと散りばめられてく。手にとってぽいって具合に適当な誰かへと投げてみたらビリビリに破かれて報われることなく捨てられたり。そんなことを繰り返していたら、本当に必要な時にその感情が見つからなくなって消えてしまったりするんだもの。本当は自分の気持ちを無下にしてるのは、自分自身なのかなあ?

 

 

わたしは、わたしの生きたいように生きているかな。わたしが生きたいように生きていくためには、それなりに努力をしなくちゃいけないと思うし。我慢することもたくさんあるんだけど譲れない何かも一人の人間として一応備わってるつもりなんだ。

もしも、もしもだよ、その譲れない何かと相反するものがすごく大切なものだったとししたら飲み込まれるのか飲み込むのか失うのか。きっと選択肢はその三つしかないのかもしれないと思うんだよね。飲み込みたくても飲み込むことができないものって世の中にはたくさんあって、飲み込まれたいと願っても飲み込まれることができないときだって必ずしもひとつやふたつこの世には存在してるでしょう。そういう時に私は自分の手元になにを残すんだろう?今までは全部捨ててきた。持ってるもの全てを投げて何も残らないようにしてた。もうそんなことは通用しないんだよ?

じゃあ、今の私は自分に何が残せるのかな。

 

例えば何かしらの衝撃で何かを失ってしまうことになっても、私はもう全てを投げ出すことは絶対にしたくない。そんなことをしても全然幸せになれなかったし、全然気持ちは報われなかったことを知ってるから。同じ失敗を繰り返すほど愚かな人にもなりたくないし、そこまで衝動的に人生を生きていたくもないって本音でしょ。

そんなの病気とか全然関係なくて、もしも病気だったとしても、これからの一回の成功であっという間に治ってしまうかもしれないでしょう?

 

賢く生きたいな。負けたくないな。でも、今自分が抱いてる気持ちも無下にしたくないし大切にしたいと思う。間違ってるなんて誰にも言わせないために自分が正しいと思った道を貫き通すしかないんだよ。バカにされてもけなされても、認めてあげることのできる一番の味方は私だよ。他の誰かじゃなくて私自身なんだってことを。

 

一方通行でもいい。意見が食い違ってもいい。片思いでも、伝わらなくても、なんでもいいから今の気持ちを自分が否定しちゃいけない。嘘をつくことと否定をすることは全然違うのだから。

 

 

 

わかってるよ。他人の人生を生きる必要はないんだよ。自分から不幸に突き進んでいくのも嫌だ。寂しさや愛しさだけで掴み取ったそれを大事に握りしめて、知らないうちに自分が死んでいくのはもう絶対に嫌だ。

涙の話をもう少しだけしてみようと思う。

 

 

悲しむべきところで私はずっと泣けなかった。きっとこの状況で泣いたら、この時間は変化を加えられると思い泣くことが多々あったんだ。そう、それはまるでほしよりこの作品に出てくる「逢沢りく」という作品に登場する彼女のように。

彼女は嘘の涙を流すことができる。悲しみの意味も知らずにー

 

books.bunshun.jp

 

きっとあの頃の私はこの作中の主人公のように、いつだって涙を用意していた気がするし、本当の悲しみを知らなかったと思う。

あの時本当の悲しみを失ってしまってから、心のなかに空っぽの隙間が生まれて、涙を流すという行為は本当の悲しみからくる反動ではなくて自分の心が壊れてしまわないようにする防衛でしかなかった。

涙を流すことはたやすくて、自分の納得のいかないことがあると壊れてしまわないように声を枯らしてよく泣いていた。これ以上なにも考えてしまわないように、全ての邪念を身体から放出するように泣き続けていた気がする。

それはまるで、赤ん坊が自分の意思を誰かに訴えかけるための手段として泣き叫ぶように、大人になった私は自分の意思伝達を涙で片付けようとしていたのかもしれない。本当の悲しみをどこかに置き去りにしてしまったかのように。

 

 

そんなことを繰り返していた私は本当に悲しい時に涙を流せなくなってしまった。本当に大事な時に涙を流せなくなってしまった。本当は悲しくて、涙を流してしまわないと自分が壊れてしまいそうなのに、涙を流すより先に自分自身を壊すことに徹することししかできなかった。自分自身だけではない、きっと多くの人を傷つけて悲しませて、涙を流す代わりにいろんなものへの破壊衝動に駆られた。

いつの間にか涙のタンクは空っぽになってしまって、泣き方を忘れてしまった時期があった。

 

 

 

最近になって、心のゆとりを取り戻してきたのか、よく泣くようになった。人生初めての嬉し涙を流すことへの幸福感を抱いた。お父さんが言っていた「嬉しい涙はいくらでも流していいんだよ」という優しいセリフを思い出して。

こんなにも涙のことを考えている私は泣きたくて仕方がないのかもしれない。

 

 

ある夜に流した涙。全てを失ってしまう恐れと、もう二度と戻ってこないものへの悔やむ気持ちを布団の中で泣き続けた。あの時流した涙は特別だったよ。私は大切なものを二度失ってしまっている。あまりにも残酷なその過去への悲しみは硬く封じ込められてしまって、建前の用意された悲しみでしか弔うことができなかったのに。

ある夜、本当に大切だと思う人に力強く抱かれたその時に、涙が溢れて、どうしようもなくなってしまったことがある。もう二度と取り戻すことのできないものを初めて悲しみのゆりかごの中で安らかに寝かしつけることができたかもしれない。

 

今言葉にしないと忘れてしまう感情をこうして、公然の前に晒すことによって自分の気持ちごと弔われるような気がする。

 

 

なんか疲れちゃった。

 

 

ハイライト

慣れない仕事は毎日覚えることがたくさんあって、疲れるような気もするし、勉強することがたくさんあるから楽しい気もする。

職場ではWindowsを触って帰宅してからはmacを触っているので、頭が混乱しそうになる。キーボードの変換の文字列がたまに分からなくなったり使いづらいなと思いながら嫌いなタイプのキーボードでタイプをしいる毎日。

 

 

仕事

今日任された仕事はライターさんにお仕事を振るために記事構成を考える仕事。何時間も練って考えた記事構成は勤務時間終了間近にすべてやり直しと突き返されてしまったがために思わず苦笑いが漏れて。少し嫌な顔をしながら「具体的にどう直せばいいですか?」と余裕のなさを露呈してしまった。

仕事を教えてくれる上司は丁寧に、一生懸命わかりやすく伝わるような日本語を用いてゆっくり教えてくれる。新人が増えた職場で仕事のノウハウを教えなければいけない彼女は自分の仕事もまとも消化できず、いろんなことを任されていっぱいいっぱいなのにそれでも右も左もわからない私に丁寧に教えてくれる。

丁寧な仕事を心がける不器用な彼女は、私の作成した仕事をひとつひとつ丁寧に添削して直す箇所を説明してくれる。

帰り道、たまたま一緒になった彼女と少し話をしながら帰った。「いつも教え方わかりづらくてごめんね」と謝る彼女は仕事の愚痴をこぼしながら私の隣を歩く。

入社したばかりの会社では、どこか職場の人と距離が掴めぬまま談笑をすることなく黙々と自分の仕事を消化していく毎日の中で。はじめて彼女の素の部分を観れたような気がして、自分の仕事のやるせなさや疲れが一気に吹っ飛んだような気がした。

彼女なりに一生懸命いま任されていることを消化しながら、懸命に私に業務の指導をしてくれる彼女は不器用だけど生真面目で突き進んでいこうという姿勢だけは痛いほど感じて私も見習わなくてはと実感させられたかもしれない。

帰りの電車の中で、コンビニで買ったカレーパンを握りしめながら明日も頑張ろうと自分を奮い立たせて。心地のいいバスの揺れに身を委ねて浅い眠りについた。

 

 

 

 

 

猫と死

最近の日課といえば、猫が死んだ人のツイッターをひたすら眺めていることくらいかもしれない。彼女の猫は日を増すごとにやつれていき、数日前に息を引き取った。「ずっと可愛かったね」という彼女の垂れ流す言葉を何度も見返しては鼻がツンとして涙がこみ上げてくる。最後の埋葬。かすみ草に囲まれた彼女の猫は眠るような穏やかな顔をしていた。置いて痩せこけ、小さくなった猫はどこか頼りなくて。それでも、その表情はまたいつものように目を覚ましてくれるのではないかと思わせるような素ぶりで。私は彼女の猫を一度も目の前で見たことはないけれど。

「骨になっても愛おしい」という猫に対する愛情や、大切なものの死を受け入れようとする反面、反抗する言葉の羅列はあまりにも尊くて。赤の他人の私が何故か感情移入をしてやるせない気持ちに浸ったり。

 

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いつか自分の猫も死んでしまうのだろうと考える。もうすぐ10歳を迎える彼はどこにでもいる雑種のキジトラ。15歳の頃、親の許可も得ずに友人から引き取った猫だ。16を迎えた冬に実家を出てからというもの彼との間に少しだけ溝が生まれて、武会社とみなされた私は血まみれになるまで引っ掻かれたこともある。今は年老いて大人しくなってしまった彼は、久しぶりに帰る私を快く迎え入れてくれるんだ。もう、昔のような活気は失われてしまって、何かを悟ったような顔をして気まぐれに寄り添ってくれる。どこか鬱陶しい気もするし愛情で満ち溢れている気持ちもきちんと用意されていて。お互いに身勝手な私たちは仲良くやっていると思う。

きっと彼もいつか死ぬだろう。私は彼の死に目に会えるだろうか。彼が死んだら、私も大切なものの死を受け入れなくてはならない。克服できるだろうか?大切なものへの死をきちんと弔う気持ちで居られるだろうかと不安になる時がよくあった。

 

まだ本当に、身近な大切なものを失ったことがない私は死というお別れの受け止め方をよく知らない。

10代の頃、親族が立て続けに亡くなったその時、お葬式では一雫たりとも涙を流さなかった思い出がある。若くして亡くなった親しい叔父を見送る親族たちは泣き崩れては、伝染していくように他人の涙が人々へと浸透していった。

ただ、なんとなくその時考えたことと言えば「一人くらい涙を流さずに見送ってやろう」という気持ちでいた。それが本当の理由なのか、化粧が崩れてしまうことを回避したいがための都合のいい動機付けだったかどうかは分からない。

それからというもの、私は本当に誰かの死に目に涙を流せるのか?と不安に思った。くだらないことではよく泣いていたのに、本当に大切な場面では涙を流せない人になってしまったらどうしようとしばらく悩んだ。

 

今の私は、大切な人への死を涙で見送ることができるだろうか?決して泣いて見送ることだけが正解ではないけれど、反動で巻き起こる感情に負けて涙を流せるだろうか。

 

老人ホームで過ごす祖母のご老体を感じたあの日の帰り道、そして冷たい布団で眠る夜は声が枯れるくらいに泣いた。まだ祖母はこの世に生きているけれど、もう死が近づいているという恐怖に感情の反動に負けて涙が出た。

もしも本当に祖母が息を引き取ったその時、私はあの夜のように声を枯らして泣けるだろうか。自分の力で、奮い立った感情を涙という表現方法でぶつけられるだろうか?とふと考えてみることがある。それは猫の死も同じように。

 

 

 

どんなに考えても、どんな言葉を用意しても、どんな憶測を立てても未来のことは分からない。私は涙を流せないかもしれないし、もしかしたら声が枯れるまで泣いてしまうかもしれないとも思う。どちらにせよ、私が今あるものを100の気持ちで愛していることは真実で、これからもこの気持ちを忘れないように今ある時間を大切に生きて行こうと思う。曖昧でありきたりな言葉しか出てこないけれど、私は今を愛してる。